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東京呼吸困難
2024年10月24日
東京・銀座で開催されたHERMÈSのファッションショー。
書類段階で400名を超えるメンズモデルの中から、3段階の審査を経て、37名が選ばれた。その内の1人だった。
この日初めて、東京が息苦しくなかった。
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ショー出演者にはプロのモデルに混じり、大沢たかお、長谷川博己、松田翔太、笠松将といった俳優陣をはじめ、東京スカパラダイスオーケストラの谷中敦、Snow Manの岩本照、陸上選手のサニブラウン・アブデル・ハキーム、バレーボール選手の西田有志、建築家の石上純也と、各界で活躍する多彩なパーソナリティがモデル出演した。
会場は銀座メゾンエルメス。
店舗横、封鎖した大通りから登場するモデル達が、奥行きのある店内全5フロアをステージとして歩く、大きなショーだった。
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私のすぐ前を歩かれたのは、谷中敦さん。
本当に優しく、気さくで、広大な方だった。
リハーサル前、出演順に並ぶモデル達にディレクターから指示が飛ぶ。「計4回フロアを上る。"自分が各フロアで階段の1段目に差し掛かった時、前のモデルがその階段を上り切る"を距離感の正として、ペースを意識してくれ(英語)」。
指示を聞いた谷中さん。こちらを振り返って「じゃあ僕が階段を上り切る時に、後ろを見てギリギリでケイゴ君が見えればいいんだね?」
関西出身であることを盾に「いやどこのモデルが後ろで確認するねん」とツッコませていただいた。
(リハーサル中、谷中さんは順路を間違えて、見学するブランドスタッフ達から爆笑をさらっていた)
最高潮の高揚と共にショーを終えた後。すぐ隣、8階建の施設(Ginza Sony Park)を貸し切った、壮大なアフターパーティーへ足を運んだ。
そこではモデルスタッフ達が、受付、順路誘導、ドリンクやフード提供をし、パーティーの運営を行っていた。このショーのオーディションで見かけた顔もいた気がする。
モデル活動のため上京して4年。未だ一本で食えない自分が、普段しているバイトの同業者だ。(大手企業やファッションブランドは、イベント事で運営業務にモデルスタッフを手配する)
普段バイトスタッフとして提供しているシャンパングラスを、この日は出演モデルとして受け取った。
ショーのオーディションに落ちて、今日もそっち側で立っていたかもしれなかった自分の姿が、一瞬頭によぎった。
今日得た分だけの高揚感を、その数値分そのまま劣等感にひっくり返らせ、スーツ姿で立つ自分が浮かんだ。
ショーのため食事を控えていた胃袋から、胃液が少し上った。
4年前
生粋のカッコつけ少年だった自分は「カッコつけを仕事にしてやる」と言って、モデルをしに東京へ来た。
ファッションに特段興味があるわけでもなかった。ショーなんて観たこともなかったし、具体的な理想像なんて何もなかった。けれど、スカウトをきっかけに、この世界へ足を踏み入れた。
目の前に現れたこの糸を掴んで飛び込めば、何者かになれる気がした。
そんな曖昧な野望を抱いて始めた新生活は、なにも思い通りじゃなかった。
"モデル業によるスケジュール変更に融通が効く"という最大のメリットで、上京2年目から今も、モデルスタッフのアルバイトを続けている。
上京当初はそんな仕事の存在も知らず、オーディションの度にバイト先のアパレルやバーに迷惑をかけた。
突発的に入る仕事のオーディション、本番日直前まで分からない結果。候補に残ったからとスケジュールをあけても、結局決まらないことが殆どだった。
バイトのシフトも減った。
毎月迫る預金口座からの引き落とし。月のうち少しでも気が楽なのは、日付の数字が小さな間だけだった。
それでも耐えて続けた。
変わらず金は厳しかったが、モデルスタッフのバイトで、少しはやりやすくなった。
僅かな経験と、試行錯誤を重ねるうちに、少しずつ仕事も増えていった。
上京3年目を終えた2023年度の源泉徴収票。
やっと、モデルの収入がバイトを上回った。
その数字を眺めながら思った。「全然ちがう」
上京前、曖昧に思い描いていた姿と、収入も、モデルとしての名声も、全然ちがった。
でも何よりちがったのは、自分自身に向ける己の眼差しだった。
思い通りではなかったのがまだ金と名声だけだった頃、何故自分は金が、名声が欲しいのかを探り始めた。するとどうやら我々の社会では、多数が「凄い」「羨ましい」「欲しい」と感じるものを原動力に人が右往左往すると、儲かる人達がいるようだった。
自分が曖昧に描いていた何者かへの憧れは全て、資本主義の餌食だったと感じ始めた。
スマートフォンとSNSの普及により、広告メディアは急速に成長を遂げた。
自分を苦しめていた「お金」「名声」「承認欲求」。
それらを餌に蔓延る広告が用意した、華々しいステージ。そこで外見を武器に戦い、その評価で喜びを感じていた。
資本主義社会の権化とも言える広告。自分は、何よりもその渦中の存在だった。
華々しいショーを歩き、初めて東京が息苦しくなかったあの夜。あれは、"選ばれなかった人達"という景色を条件に作動する、"選ばれた人"限定の酸素ボンベだった。
東京の、自分の、世界の見え方が変わり始めたのは、読書を好むようになってからだった。
本は、他のどのメディアよりも広告と相性が悪い。
信仰宗教を持たない人が多数を占めるこの国で、資本主義は、金は、もはやそこに神として成り代わっている。とさえ私は感じる。
そんなこの国、この時代に、本とは、金儲けに都合が悪い真実が広がる海に見えた。
視覚イメージも、動きも、音もない。同時に誰かと共有することも出来ず、たった1人で何時間もかけて、何万字という文字を目で追う。孤独で、寂しくて優しく、気高い営み。それが読書だ。
そこには、他の誰からの「羨ましい」を得ずとも、ただ純粋に慈しめる世界が広がっていた。
東京で酸欠とせめぎ合いながら、酸素ボンベを奪い合うレースに疲弊し始めた私にとって、読書は、新しい息継ぎだった。
新たな世界を見つけた私には、言いたいことが溢れ出始めた。気付けば、自分でも文字を綴るようになった。新たな居場所を見つけた心地だった。
そんな出逢いがあった上京2年目から、2年間ほど、読書と執筆という、オアシスを見つけた喜びに浸っていた。
だが4年目に入っても、結局モデルだけでは生活できなかった。そんな現実のせいか「自分の居場所はこっちにあるだろ!」と、読書と執筆に過剰に意識を向け始めていた。
すると徐々に、文章は思うように書けなくなった。読書は変わらず続けていたが、目に入る文字が脳に届く時、薄いモヤがかかるような感覚を覚え始めた。
呼吸は、しようしようと強く意識すると、上手くできなくなる。
文字を目で追う、文を紡ぐ。その行為は、実はとても、肉体的な運動だ。
その運動に、自然と伴う呼吸が、自分を救ったはずだ。呼吸をするために、現実から目を背けるために、本を、執筆を、愛したはずじゃない。
そんなある日、太宰に頭を殴られた。
本なんか読むの止めてしまえ。観念だけの生活で、無意味な、傲慢ちきの知ったかぶりなんて、軽蔑、軽蔑。やれ生活の目標が無いの、もっと生活に、人生に、積極的になればいいの、自分には矛盾があるのどうのって、しきりに考えたり悩んだりしているようだが、おまえのは、感傷だけさ。自分を可愛いがって、慰めてるだけなのさ。それからずいぶん自分を買いかぶっているのですよ。
読むことで、書くことで、感傷に浸る自分の守り方を覚えた気がしていた。
でもそうじゃない。読書は、執筆は、逃げ場じゃない。
最も尊い場所として、そこに立っていたい。
善く生きよう、強くなろう。でもそれは、弱さを捨てることじゃない。弱さを守る、強さを持とう。そう思えた。
きっとその先の自分には、モデルが、東京が、自分が、違った見え方をしているはずだ。
明日も仕事のオーディションだ。しかと戦おう。 そして、また読もう、また書こう。
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