|私《し》的 VS. |私《わたし》的
敬語とは、婉曲表現である。
立てるべき人の行為をあたかも行為でないかのように表現し、名指しを避けるため敬語を使うことで主語をあえて省略する。
それは、曖昧に表現することで、自身が立てたいと思う人を責めず、自尊心を守ってあげるためだ。
だから敬語を、
「お待ちになっている」は尊敬語で、
謙譲語なら「お待ちする」と言うのだ、
などと言葉の上だけに限定してしまうと敬語の本質を見誤る。
先週のブログ「者 < 人 < 方」に対して、我が敬愛する庵忠名人がコメントを寄せてくださった。
人にはいろいろと口癖がある。それらは三日も一緒にいれば慣れて気にならなくなるものだ。
それを庵忠名人は、なんと40年間、気になり続けているのだ!
それにはもっともな理由がある。
「的」の使い方が、自敬表現だからだ。
もちろん、気にならない、もう慣れた、という人も多いだろう。
実は、「的」以外に、自敬表現として使われやすい言葉はある。
先週も少しだけ出てきた「ほう」も代表格の言葉だ。
言葉ではなく、語尾を省略して言葉を濁すという方法もある。
慣れて気にならない人が多くなればなるほど、もちろん自敬する人々は増殖しやすくなる。
さて、自敬表現とはどういう意味だろうか。あまり一般的に使われる言葉ではないので、少し説明しておこう。
自敬表現とは
自敬表現とは、字のごとく話者が自らを敬う(=立てる)表現のことである。
「俺様敬語」とでもいえば分かりやすいだろうか。
「私がおっしゃる」とあからさまに自分を立てる言葉遣いであれば、さすがに大概の人は控える。しかし、言葉自体は普通の言葉でも立てることはできる。
立てることの本質は婉曲表現だからだ。
敬語を使わない敬意表現もある
例えば、店を見て回っていた客がディスプレイの花瓶を壊してしまったとしよう。
当然、弁償してもらわなければならない。
そのとき、店員は何と言うか。
これは文法から見れば正しい敬語かもしれない。
しかし、こんな言い方をすれば、客は腹を立て、逆にクレームになってしまうかもしれない。
それは、立てる言葉を使いながら、実際には客の顔をつぶしているからだ。
それでは、どのように言えばいいのか。
例えばこんな言い方はどうだろう。
バッグを持っている手が花瓶と反対側であったとしても構わない。
このように言えば、客は自分に配慮した言葉を選んでいることが分かる。
そうすれば、きっとこのように答えるだろう。
全ての客がこのように答えるかどうかは分からないが、自分から弁償するか、事務室に連れていかれてカメラの映像を見せられ警察を呼ばれてから支払うかの選択だと分かる通常の人であれば、自分から弁償すると言ったほうがいいと気付く。
これが、敬意表現であり、婉曲表現である。
ここでは、あえて断定せず、「ようだ」と曖昧に言っている。今、目の前で起きた、明々白々の事実であるにも関わらず、である。
なぜか。客を責めないためである。
それでは、庵忠名人が気になるという「的」について見てみよう。
婉曲表現としての「的」
庵忠名人は「私的」と書かれた。これは読み方によって「私的」と「私的」がある。
「私的なことで恐縮ですが」と言えば、皆に共通することを話す場で個人的な体験を話してしまい申し訳ないという気持ちを表す。もちろん、これからする話がその場に必要な話だと思っているからこそ話すのだが、それを謙虚に表現しているのだ。
一方で、「私的」は使い方が異なる。
こんなふうに言われたら、大体の人はイラっとするのではないだろうか。
もしかしたら、可愛い💛と思う人もいるかもしれない。
おそらく、それは同じ要素だ。
つまりそれは、
大人としての責任ある態度ではない
ということだ。
可愛い、と思う人は、この言葉を聞いて「そっかぁ、好きくないよねぇ~」と取り換えてあげるかもしれない。
本人は依頼すらしていないのに、である。
相手を責めないのが敬意表現なら、自分の役割を明確にし責任をもって果たすのも敬意表現である。
このような言葉を言われてエラそうな奴だと思う人はいまい。
ひるがえって、例示した「的」の使い方は判断も濁し、状況が悪くなると見るや「でも、やっぱり好きかも~」と即座に鞍替えできる余地を残している。常に責められない位置に自分を置こうとする姿勢が自敬につながるのである。
それでは、また。