クレームは映画を観るように聴く
特にクレームのときですが、傾聴が苦手な人を見ていると、お客さまとの距離が近すぎる人が多い気がします。
共感能力が低いのではなく、距離が適切に取れていない。
距離が取れていないとこうなる
お客さまが怒っていると、まるで自分が殴られているかのように萎縮してしまったり、逆に防衛に走って言い訳をしてしまったり。
こんなとき、私は「電話では殴られないから安心しろ!」とはっぱをかけます😉
普段なら丁重にお断りするはずのことでも、お客さまに窮状を訴えられると、その自分の立場も忘れて上司に頼み込んでみたり。
こんなときには「自分が裸になれって言われたら脱ぐのか!?自分は何もしないけど会社にはさせるのか!!」と追い返します😑
まずは共感
まずは、お客さまの気持ちに共感することだけに専念します。
お客さまの気持ちや電話をかけてきた目的や要望がすっかり分かるまでは、解決策とか、「私はどうしたらいいんだろう」とか、余計なことを考えてはいけません。
問題もわからないうちから答えを探そうとしても分かるはずないですからね。
では、電話の向こうでお客さまが怒鳴りまくっている、泣きじゃくっているというときに、ただ共感するとはどういうことなのでしょうか。
カウンセリングの神様の言葉
カウンセリングの神様と呼ばれたロジャースは「共感的理解」について“あたかも自分が感じている気持ちであるかのごとく感じとり、しかもその「あたかも」という感じを失わないこと”と述べています。
でも、これではちょっとわかりづらいので私流に説明すると、“映画を見ているように感じること”です。
映画を見ていると、彼氏と彼女の気持ちがすれ違っていても、“あぁ、彼氏は本当はこういうつもりで言っただけなんだろうなぁ”とか、“彼女は本当はこんなふうに言ってほしかったんだろうなぁ”とか伝わってきますよね。
これが、“あたかも自分が感じている気持ちであるかのごとく感じとり、”です。
また、映画の中で主人公の子どもが死んで、主人公があとを追わんばかりに嘆き悲しんだとしても、次の日喪に服して会社を休む人はいませんよね。映画の中で起きたことは自分のことではないということを誰も分かっているからです。(何年経っても印象深いシーンを思い出すことはありますが)
これが、“しかもその「あたかも」という感じを失わないこと”です。
だから映画を観て感動できる人なら、共感的理解ができる能力はあります。
共感は人への信頼
でもお客さまが「新幹線で今すぐ来い!」とか、「慰謝料1000万払え!」とか言っているのにそんな悠長なことを言ってていいんだろうかって、心配になりますか?
そこで自分の心配な気持ちに気を取られてしまうと、
ほら、
もう傾聴はできません。
そんなときには、お客さまと自分と自分の会社を信頼することです。
お客さまのお怒りがどれだけもっともでも、「そこを何とか言いくるめるのがお客さま窓口の仕事でしょう」と言われるような会社はそうそうありません。
一方で、お客さまの言葉だけに反応して本来できないことをするのがサービスではありません。その言葉を発しているお客さまをまるごと受け止め、お客さまと会社が良い関係を築けるように取り計らうことがサービスです。
私は会社の代表として、今、全集中でお客さまのお役に立とうとしている、とそれだけを考えることです。(これは、お役に立とうとしなければと思っていては、できません)
雨上がりの虹のように
水は形を変えますね。キラキラ光る湖面は美しいと感動するのに、空から降ってくる雨に濡れると水が厭わしいものに思えてしまいます。でも、今自分の目の前にある状態が違うだけで、どちらも水であることに変わりありません。そして水がどれほど大切なものかは、誰もが本当は知っています。
人の心も移ろいます。
信頼が失望になったり怒りになったり、いろいろな形を見せます。
けれど、失望も怒りも人の心です。失望は癒すことができますし、どれだけ怒りっぽい人でもずーーーーーーっと怒っていて怒り以外の感情を持っていないという人はいません。
今、お客さまの心が雷雨でも、自分が水の本質を信じ、その雨を喜んで受け入れるなら、きっと雨上がりも見ることができます。
そのときには、雨上がりにしか見ることのできない虹がお客さまと自社にかかっているかもしれません。それは、一生懸命働いた自分へのご褒美です。自分がかけた虹を見るのは、なかなかに良い気分ですよ。
では、また。
世界や自分自身をどのような言葉で認識するかで生き方が変わるなら、敬意を込めた敬語をお互いに使えば働きやすい職場ぐらい簡単にできるんじゃないか。そんな夢を追いかけています。