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『マイ・ブロークン・マリコ(2022)』を観ました。

やたら悩んでるからって問題が大変だというわけではないと思う。
「あーでもない、こーでもない」とか悩んでるってことは、別な言い方をすれば、まだ悩んでる余裕があるってことだ。本当に動かないとヤバい時に人は気がついたら動いているのであろう。

友人マリコの死を偶然食事をしていた店のテレビニュースで知ったシイノトモヨは、その瞬間から走り出す。悩んだりしてる暇なんかコンマ一秒もない。頭で考える前に身体が勝手に動くという感じだ。
だから職場に「すいませんダチが死んだんで休みます」なんて報告なんかしないで動く。いきなりマリコの家のピンポンを押す、そこで今のマリコの母親が出てきてから、なんとかして家に上がり込むために勝手にしゃべりだす。シイノトモヨは人として男前である。

子供は親を大事にしろなんて言われることがあるが、そんなもん親を大事したいと思った奴が大事にしてればいいことで、大事にするような価値も意味もない毒親なんてこの世の中にはうじゃうじゃいる(と思う)。
弱いからジサツするんだとか言われることがあるが、まわりの誰一人助けてくれない地獄に投げ込まれて、どうにもできないほど深い傷を刻み込まれてしまう人だって、この世にはいくらかはいる(と思う)。

行動するシイノトモヨが想い出すマリコは、確かに「なんでそんなことするか」とか「どこかぶっ壊れてるんじぁないか」って思うが、彼女はぶっ壊れたくてぶっ壊れているわけではなくて、ぶっ壊されたからぶっ壊れて生きるしかないのだ。毒に犯された者が生きていくにはどうしても毒を吐き出すしかない。そういう生き方を軽々しく自業自得などとは言えない。
男に依存するのだって、「この男の言うことを聞いていれば抜け出せるかもしれない」と思ってしまうのも当然だし、そんな関係は相手に鬱陶しがられて終わるのも当然な流れではある。マリコの生きる道を進んでも進んでも結局なんども求めては捨てられるの繰り返し。そんな自分を変えることなんて考えもしないし出来やしない。
そんなマリコの周りから人は離れていくし近づいてはこない。それでもシイノトモヨだけがマリコに寄り添っていた。これはかけがえのないことだと思う。

シイノトモヨ役の永野芽郁がよかった。
「なりきれていない」とか「違和感がある」とかの感想もいくつか見たがそんなのは気にしなくっていい。永野芽郁がこの役を演じたいと思って全力で演じた。その姿を監督のタナダユキが作品にしてくれた。それをしっかりとそのまま見ればいいだけだと思う。
だいたい演じるってのはあたかも自分とは別の人のフリをすることである。その人がその役に近いような人が演じた方がいい作品もあると思うが、今作については永野芽郁がシイノトモヨを演じることがこの作品によい効果を出していると私は思った。

今作は重いテーマではあるが描く部分や描き方が見事だと思う。マリコから描いた作品だったらキツすぎて数分も見ていられないかもしれないが、突っ走っているシイノトモヨを描いた作品であり、ひたすら突っ走る彼女の姿を見ているのは心地いいし面白い。

しつこく泣かせるような演出もないし、最短距離ではじめからおわりまで全速力で駆け抜けるような流れは今作に合ってると思う。やたら悩んだりしてジメジメしている映画が苦手な人とか、あんまり日本映画を見ないような人にもおすすめしたい。

納得できないことは我慢なんかしないで「とりあえずそんなくだらない奴らはぶん殴ってやれ」である。見終わってふつふつと生きる力が湧いてくる。そんな作品でした。

(アマゾンプライムビデオで観ました)

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