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崩れてしまった朝活のもどし方 vrs.1

朝活をスタートしたわけ

悪く言えば散々だった。でもいいく言えばいろいろな気づきがあった。
そんな前職でした。
そこの会社でしていたかどうかは不明にしても、これまでの人生の中ではどうかと思えば私はそういう人間だったのだと当時は見返りました。その上ではその言葉はその彼の言葉ではなかったのかもしれません。

そんな私がこれからの自分のためにとやり出したきっかけがここには詰まっていたと思いたい。

終わりとともに消える習慣化

辞職したいと思い始めるとせっかく始めた習慣化が段々消えていくのにとても戸惑いました。楽しんでいたはずのヨガも苦痛で仕方がなくなりました。元気につながる読経ももうすべてが辛くて仕方がなくて、そんな中に見つかった身体障がいを『結局なにも話さない!』という過去の上司からの批評を鑑み、話すと上司の反応が大げさのように聞こえたのかなと感じた淋しさを覚えた。

『気のせいだよ・・・』と自分に言ってみても何だかむなしい。

とにかく不調=自己責任が通説の会社にそうであっても「不調なんですね、お大事に」という『お大事に』という言葉を障がい者どうしの中でも聞くことは少なかった。というかそういう心遣いの持てる人たちは1人ひとり…とこの1~2年でざっと見積もっても10人は辞職したと思う。

そういう会社だったから辞めてからもどこかやるせない焦燥感だけが残ってしばらくは操り人形の糸が切れたように何も手につきませんでした。

それでもこぼれる光

冬はいろいろと辛かったです。もともと低体温体質なのか決まって朝は34度後半までしか体温は上がらず、勤めていたころも出社してようやく35度に上がる、そんな状態でした。
だから年末から「さぁ、戻すぞ!」といきがってみても、何も成果が上がらず転職活動を再開してみようとも思ってもやる気どころか生きる気力がわかない。そんなとき黙って助けてくれたのは家族だった。

「根治はしない」医師からの言葉を伝えた時は絶望感に似たため息をこぼした。でも次の日から父は私に食事の支度以外はこれまで通り自分でやってくれている。黙って、黙々と、これからの老後の心配もおそらく自分のことではなく自分の亡き後の私のことだと思う。

親なのだから当たり前なのかもしれません。でも大変な中に秘密を順守しながら30余年国に仕えた父でした。そして父もまた妻に先立たれた悲しみを共に背負っているわけです。決して当たり前ではありません。それを特定指定難病を背負った娘のためにもくもくと朝食後すこし横になる私の部屋をそっとクイックルで床を吹いていくのです。
雪が解けて春になってきました。
心にも陽だまりが注がれるようにつらい思い出の過去は大切に思い出の箱に綺麗に閉まって、これからはゆっくりと想いを巡らす人生を暮らせるように可能性の種は必ず自分の中にあると信じていきたいと、もう一度頑張ろうと思いました。

気づいた習慣化のポイント

  1. 心から元気になるのではない

  2. とりあえず始めて見る

  3. 未来を想像する

  4. 他人の想いに耳を傾ける

  5. ゆっくり想いを巡らしてルートを決める


私がこの3~4か月で気づいたことはこれらの5つでした。
なぜこの5つだったかというとタスク化やMAST思考に執らわれるとかえって自分が苦しかったからです。
1個ずつ解説すると以下のようになります。

1. 心から元気になるのではない

まず身体を元気にするには気持ちからでしょう。私も今まではそう思っていました。でも精神疾患であるがゆえに心のコントロールを気持ちだけで維持しようとすると非常に負荷が大きかったのです。

現に前職中の習慣化はそうした経緯も大きな負荷につながったと思います。

他人の言葉を借りれば習慣化したい理由付けもそうですが、まずちょっとでもいいから身体を動かすことが心の健康につながる場面が多くありました。

朝の習慣化にはまだ…ですが、日常のタスクは少しずつこなせることからやはり『同時に少しずつ』と『未来の夢につながる動機』が長く定着させるコツなんだ、と気づきました。

2. とりあえず始めて見る

正直タスク化しても最初は朝活を取り戻せず四苦八苦しました。白湯を飲む習慣も消えていましたし、「会社に行かなきゃ!」という義務ももうないですから意思も弱く具合悪いと横になってしまうんですね。
順番を変えてみてもそれは変わりませんでした。

でもヨガや簡単なエクササイズを入れていた生活は本当に1日の脳の活性が違ったような感覚を振り返るので私は再開を目指していますが、正直辞めたら辞めたでやりたいことも増えて、やってみるとこれが義務化してくるとキツくなって仕方がないわけです。
でも、一番楽しかったのは日常の動きがなかなかの達成感があったことでした。大したものは作れません。でも料理を作るのは何故か楽しいものだと思いました。腰は重いもののちょっとやり始めると楽しい、また工夫1つでいろいろな方法ができて楽しさが倍増する、この仕組みかが私の楽しさなんだと思えました。

3. 未来を想像する

朝活にしても別にしてもやはり動機付けがないとモチベーションが下がります。これまでの私がそうでした。

私にも夢がありました。でも20代のころも…いろいろあって、当時は工夫が見出す方法がわからず、夢も叶えることができなかった人生にやるせなく希望がずっと見えませんでした。

でも今回を通して、初めて自分の未来を考えました。
「身体が自由に動くのも4~5年が目処と思って下さい」
確かにショッキングな言葉なのかもしれません。でもなぜかこの時私には希望がありました。
『4~5年で10年目指せる仕事を見つけよう!』

そうすると想いはいろいろ巡らされました。
やっぱり子供のころの漫画も心を巡らしました。でも現状活かせるのは事務スキルをさらに伸ばすことは?特徴がある声を生業にするって…。
今まではプロの人を考えると安易に考えているようで失礼と思っていました。でもずっと興味がある職業の1つでした。

こうすると思った以上にいろいろ出るものです。でもここですぐ突発的に行動してしまっては今までの自分のままだと思いました。
『こうなりたいな~。でもこうなると…』と身体の将来を見据えてやれる道を模索した3か月でした。

4. 他人の想いに耳を傾ける

とにかく誰かの役に立つ、誰かの夢につながる仕事がしたい。それが今までの私の想いですので、そこは大事にしたいと思いました。
そのために諦めることも必要かな、と思ったことが先日ありました。

5年近く続けていたボランティア活動とも似たことだったのですが、そういった取り組みを長年、プライベートで続けてきました。しかし前年末からの不調で周囲には大変迷惑をかけてしまったことが気がかりでした。
その日顔合わせがあり、終わってから行き責任者関係の方々にこれまでの状況を説明しました。

「でもやりたいんでしょう。ならフォローするから!」
正直ありがたかったです。一応そこでは5年で終わりのところでしたので、どんな形であれ最後の1年を共に過ごした友人と終われることがとても嬉しかったです。

世の中にはいろいろな声があります。私は子供時代からのトラウマが原因で大人の声に耳を傾けることが非常に難しい特性を持ちました。でも社会人となった今、善悪があればその言葉を受け止め取捨選択はできると思います。もちろんその人達の心の広さは計り知れません。でもそうやって愚直でも自分の中に培った正しい基準を柔軟に周囲に活かしていけば、私の人間性もちゃんと伝わるんだ、と思えた瞬間でした。

できる限りこころの声に耳を傾けたい、と思って取り組んだ1年の結果でもありました。

5. ゆっくり想いを巡らしてルートを決める

「もう少し肩の荷を下ろして、ゆっくり歩いていいんだからさ」
これは前職の上司がくれた言葉でした。
人生を急いたばかりに無鉄砲に飛び出して事故に遭うような人生でした。これからはもう少しゆっくり歩いてみても、もういいんだ。

まず事務に関して最初テレワークを検討したところ、幸いテレワーク中心で動かれてる事業所さんに巡り合いました。3日ほど体験をさせていただきましたお陰で時代錯誤な自分の考えとテレワークがゆえに誤解や齟齬の生じやすい想定が見えてきました。

私の場合はまだテレワークは早いのでは?との気づきからそこでの訓練はいったん見合わせました。さらに検討を深めたところ、求めていたような構成の事業所さんを発見し、体験の申し込みをさせていただきました。こちらは来週に1週間の体験で伺うことで話がまとまりました。

他にもその間に漫画のカラー化のトライアルを実践してみたり、また思い切ったことに声優事務所への応募もしていました。

決定までには急がずともこういったトライアルチャレンジが経験できると本当に課題や達成感にもつながり、視野が広がっていくと想いを巡らします。

いろいろあって、いろいろでいい

努力をしなければ得るんのない。人生は簡単ではダメなんだ。
辛い想いをしなければ…
そう言われて人生を生きてきました。楽に生きることは鼻で笑われ、どこか罪の意識さえあり育ちました。
でもこうなって私は初めてその言葉たちの取り違えに気づきました。

確かに祖母たちは大変な中に生きました。戦争もあり怒涛な毎日だったと想像を巡らします。なのであの時そう思って辛抱しなければ生きていけなかった、とこの歳になったから思えるんです。
母の時代もまだまだ主婦はパートが当たり前の時代でした。時間通りの仕事は上長たちからの咎めの要因にもなったようです。
なので休憩時間も実質ではなく、上長からお声がかかってからとっていたのかそうするように、そして制服の着替える時間は勤務外であると教わり私は育ちました。

でも時代は変わり、上記のテレワーク系の事業所さんの体験では返答いただいたチャットの文面に返送をしたことで企業から見れば昼休みをきちんととっていない『時間の観念がない人』と見られるのだ、ということがわかりました。なので私には向かないと直感で思いました。

無理さえしなければあと少なくとも2~3年は身体が動くと推測し、他事業所の検討を視野に入れることにした結果、幸いにも事務のスキルでも求めていた構成でのプログラムを組んでいる事業所さんに巡り合いました。

こうしたように世の中の考え方は1つでもないし、1つの選択肢さえも想いを巡らせばその先の様々な視野が広がるんだなと思えました。
人生、これでいいんだ。これからはこれでもいいんだ。
その選択肢が失敗したら人生が終わるわけではない。また違う選択肢を選んだり間と間を組み合わせたらいいんだ、と思えると気持ちが楽でした。
できないことは工夫一つでどうかなるかもしれないから諦めたらいけないし、どうしてもできないことは一旦お休みしてもいいんだ。

「これでもいい、あれでもいい、それでもいい」
とにかく方法は目の前の1つではない。これが今の私の『探しものステッキ』になりました。

いままでとこれから

子供のころの見る世界はそれが全てでした。小学校、中学校、高校…指をさして嘲笑する声を聞きながら、それを跳ね返す方法もわからず泣きながら見えない未来を求めて走っていました。
でも私も変えよう、変えていけるという希望がありませんでした。
当時の私には変わりたいことよりも『学校を卒業できたら逃げれる』と想い我慢して過ごしていたと思い返します。でも我慢は、言葉にしてもダメージにしても、いいものではありませんでした。
そうしているうちに私は現状を憎み妬だけになってました。それがなおさら私の人生を暗く冷たい世界に追いやったと思います。
あのまま私もそのままの道を歩んでいたらもっと自分の考えばかりに固執したと思います。

でもこれまでの苦しく辛かった経緯の中に、私は知らず知らずのうちに包んでもらっていたやさしさの中にいたのかもしれません。
これまで失敗ばかりの人生でした。他人のこころに耳を傾けることも、本当にここ最近になって志した想いです。前職でもいろいろ抱かれた想いの中でそういった努力も身を結べないで、人の可能性の芽を摘むきっかけになってしまった、と心も痛みました。
でも、可能性を活かし育てるのは他人ではなく自分だとも同時に気づきました。

人生は楽で誰にも通用する、なんて方程式はどこにもないが答えだった気がします。だから『自分の方程式』を作るためには『経験』とういう材料が必要なんだ。それが『じぶんらしさ』につながっているのかな、と。

そのあたたかく灯った『じぶんらしさ』が誰かの希望に繋がったり、目の前の誰かとの架け橋にきっと、なってくれるのかもしれない。

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