24 山の土曜日、夜風 4/4 夜風の中から
「誰も起こさん声で訣別か」
ジョン=マチスの声も相当低かった。
「おんなじ調子でロバンにもやったのか」
はい。
「一方的な最後通牒じゃないか」
そのまんまです。ただ、
「ロバンの時はこんなに感情的に詰めてはない。
もっとシンプルに、要点だけ」
直球で言い回しにひねりがない。湾曲表現ゼロ。素手の争い並みの粗雑さ。
次はもっと会話ができる人と出会えますように。
ロバンが幸せになりますように。
フィリップだってそう。
彼も友達多そうだから、きっと他と楽しく過ごすだろう。
泣くわけでもない。
涙するわけでもない。
私は机に両肘をついて、ただ家の中の寝息を聞いていた。
「俺寝る」ジョンマチスが床にキャンプマットを縦に二枚整え、床の隅に毛布を取りに行った。
ライトを最小限に落とす。さすがに足元も見えないような真っ暗にはできない。
暖炉から伝わる暖房は外の寒さに揺るがない。
私は上着を着こみ、そのままテーブルで膝を抱えて座っていた。
一時間くらいたっただろうか、ふと窓の外が気になった。
窓の外に目を凝らす。
椅子を動かしてテーブル側の窓をそっと開ける。
風が木の葉を揺らす音しかしない。
外は漆黒で何も見えない。
ぬばたま、むばたまって、フランスで見るとは思わなかった。
“むばたまの夜の夢だにまさしくは我が思ふことを人に見せばや”
どうして私の思うことは色恋じゃなくて犬なんだ。
外に向かってゆるく小鳥の声を吹く。カリブ海の雨上がりのカエルが声がしたと、キムが見にきたことがある指笛の音。穏やかに静かに。夜ならこれでも聞こえるだろう。そして私は窓を閉めた。
部屋から出て階段を見下ろす。一階から寝息しか聞こえてこない。足音がしないように下に降りる。二階、一階、台所にもいない。男陣の雑魚寝の中に混じっていない。テーブルの下にもいない。ソファーはジャックが寝入っている。玄関、トイレ? 見当たらない。庭に出てみる。見回しても人影なんて見えはしない。
コロコロコロ、指笛を少し遠くにめがけて吹いてみる。
そして一度だけ、高さを落とした沖縄指笛。
いくら耳を澄ましても風の音しか聞こえない。
私は諦めて家に戻った。
屋根裏部屋にはなるべく静かに上がった。
右側、テーブル脇の入り口近くで寝ていたジョン=マチスから苦情らしいうめき声がした。
私は謝り、椅子に戻る。
ふたりがやっていたように壁にもたれてもうひとつの椅子に足をかけて長座する。どうあがいても椅子はテーブルの前に収まっている。それ以上の距離にはのびない。
テーブルの上にはジャガイモ袋。中からひとつかみ、ふたつかみと彫りかけのものを取り出した。けれど紙や木の音が闇に響くので手を止める。
もうこのまま女の子の群れに戻ろうか。
私だって群れに混じれる。
部屋の隅の使われていないキャンプマットと毛布を目で確認した。
こんな夜はもう眠よう。
あいつもきっと暖かいところで過ごしている。
椅子から片足を降ろした時、階段を上がってくる足音がした。
寝ているジョン=マチスの枕元をそっとよけて、フィリップは教卓への呼び出され坊主のようにテーブルの横に立った。聞きとれるか聞きとれないかの声で彼は言った。
「鳴いてる」
「鳴いてない」
「鳴いてるって」
「鳴いてない。そもそもどうして皿はよくて犬はダメなの。意味が全然わからない」
フィリップの後ろでジョン=マチスがうさん臭げにこっちを見上げた。
私はそっと、外から犬の悲鳴みたいな声が聞こえるか聞いてみた。
「てめえらふたりがやかましい」
ジョンマチスは毛布をかぶって背を向ける。
昨日はどうしてやり過ごしたっけ。
犬の話をしていたような。
「犬の悲鳴が止まない」フィリップが情けない声を出す。
「今度はレクター博士とクラリスごっごかよ」ジョン=マチスがうざそうに立ちあがって窓を開けた。しばらく外を覗いた後、
「俺は何にも聞こえない」
「多数決。聞こえない」
言いながら気になった。トラウマから来てるのか?
自衛隊やってた従兄も、豚の声が聞こえるようになったからと現場から外されていた。羊たちの沈黙は、羊牧場?
犬の悲鳴?
何があった?
何ごとも自分のロジックで考えるのはやめたほうがいい。
ちょっと試す価値もある。
私はジャケットのポケットからスマホを取りだした。ケースからストラップを外してフィリップに手渡す。
「うちのじいちゃんが作ったお守り。宮大工マイスター直々のご製作だ」
フィリップは差しだされるがまま根付けを受け取った。
で、目を見開いた。
周りを見まわす。
窓を見る。まばたきひとつしない。
トラウマじゃねえじゃん。
「持ってていいよ。うちのじいちゃんの特別仕様だから大事にしてな」
「ハルヒも聞こえるのか」
フィリップは椅子を動かして私の斜め前に座った。その向こうでジョン=マチスが寝返りを打ち背を向けた。
「聞こえない。本当にこの国では私は何にも聞こえない。
日本じゃ家の前にでっかいお山があって、四六時中、本当にいろんな音が聞こえた。人がひっきりなしに来る山で、日中は人がたてる音がずっとしてた。この間話した犬の声もね。でもそれは多分フィリップの聞こえる音とは違うと思う。
どっちにしろ、その根付けのおかげで音が変わるんだ。
音階になる。
ホワイトノイズな音楽に代わる。
眠れない私におじいちゃんが作ってくれた根付け。
売ってるお守りとは違う、騒音対策仕様だよ。
確かにフランスには私の気になる音はない。外国語の氾濫でしかない。聞きたくないものは一切聞かなくてすむ。
だからそれ、この国では私にはいらない。
フィリップに効くなら、あげる」
フィリップは手の中のケモノの根付けを見入っている。
「じゃあ何か、俺が日本に行ったら犬の悲鳴を聞かずに過ごせるのか?」
「聞こえなくなるか、倍増して眠れなくなるかは私にはわからない。試し―」
言いあぐねたけれど、でも言葉にした。
「試してみればって言いそうになったけど、個人的には勧めない。
おじいちゃんは私に試させた。でもそれがフィリップにどう転がるかは想像がつかない。
風土のロジックは私には全然わからない」
「ハルヒのじいちゃんが日本を出ろって言ったのか」
私は笑った。
「京都で作ると時々とんでもないものを作るからもうよそでやってくれって言われた。まさか海外に行くとはおじいちゃんも思ってなかったらしい」
「何作ったんだ」
「知らないよ、私は普通に彫ってるだけだから。おじいちゃんが何にどう思ったかなんて私は知らない」
フィリップは右手を握りこぶしごとポケットに入れていたが、いつの間にか机に突っ伏して寝はじめて、結局床にマットを敷いて毛布をかぶった。根付けは胸ポケットに移していた。
そうだよ、それは眠れるんだ。私ももらった時、三日三晩眠ったよ。おかげで高校受験を寝過ごした。
丸腰の私は女の子の群れに戻る。初めに使っていた毛布はもう女の子の群れの中に埋もれてしまった。私は代わりの毛布を取りに行った。