15 はじめての休日出勤
さっきまで自転車で休日の工場を走り狂ったような髪をしていた。その男がいつの間に身なりを整えたのか、スマートなビジネスマンの風貌になっている。パンツに合うスーツもどこからか調達している。
「ボンジュール、ナタリー。ボンジュール、アリシア」
男性は伸びた背筋で人事のひとりひとりに握手していく。握手された人もボンジュールムッシュー・ルメイトルで返す。
私、ポジションの高い人にマヌケをさらした気がする。
ナタリーは先ほどの説明を白衣の子にも繰りかえしはじめた。机上の電話が鳴る。部署は金曜日の仕事モードに戻る。見渡すとかなり広いワンフロア、外から見た感じでは平屋、壁には扉のついた金属製の書類棚がならんでいる。見るからにコンピュータセクションな部署が真ん中に。その向こうにも事務のテーブルが三つほど島を作っている。窓の外は山、駐車場が遠くまで続いていて、左手に軽く隣の企業の建物が見える。食品加工工場だっけ。
空が青い。
「ありがとうございました、帰ります」で退散しようとすると。
「チームのミスだ、駐車場まで自転車で行こう」
と偉いさんじみた男性が提案してくれた。
「バスですから。徒歩3分で行きつけます」
振り切る。人事のナタリーが何か言ってる声がする。
「なんとか、マダムなんとか」
私はもうここでは部外者なんだから逃げるように「では」
「えーっとなんだっけ、新人、フォークリフト」
私?
ナタリーの方を見ると、相手はまっすぐこっちを見ていた。
「あなたフォークリフトよね、今ゲートから電話があって、トラックがインクに荷物配送しにきちゃったんだって。納品、手伝える? どうせタイムカード打っちゃってるんでしょ。休日出勤手当つくわよ、どう? 金曜日だけど1.4倍増しよ、今働くと交通費もカウントされるわ」
さすが人事、勧誘のポイントを押さえている。しかしそれでいいのか、この会社。
隣にいたスーツ男も同じ印象を持ったようで、ナタリーに何か言いげな顔をしている。
「リフトを倉庫から出せるならできます。新人なのでまだ建物の鍵とかわかりません。リフトの キーと倉庫の扉、それからインク棟の搬入口が開けられるなら対応できます」
「ちょっと待ってね」
ナタリーは高ポジション男の鋭い視線を避けてコンピュータを操作する。「総務、ペギー出勤してるから聞いてみる」
と電話に手を伸ばす。
高ポジションの男はため息をついて、窓際のオフィスへ向かっていった。
結局今来た道を戻る。
倉庫前でペギーがタバコを吸って待っていた。その脇には自転車。
スーツ男の自転車を借りればよかったと思ったりもする。
鍵の場所や開け方を教えてもらう中、どこかで10tトラックの走る震動が響く。
「倉庫、一斉RTTになったんだ。私も産休取ってたから知らなかったよ、前はずっと交代だったのにね。今年から変わったんだ。運送業者には伝わってないのかな」ペギーが言う。
今日のフランス語、RTT。明日まで覚えていられるだろうか。
「産休とってらっしゃったんだ、今赤ちゃんは?」
「クレッシュに預けてる。居心地いいみたいでよく寝て夜起きるんよ」
クレッシュ? 明日のフランス語にしておこう。
「夜寝ないの大変そう」
「クレッシュとか通いだすと寝るって言われてたんだけどね。どうも体力有り余ってるみたい。アリィは?」
私の子ってこと?
「いないよ、産む気もないし機会もない」
日本にいる時からずっとそうさ。
「まあ、出来たらすぐに医者に相談しなよ。すぐに診断書書いてくれるから」
「すっごい話になって来たね」
ユース生活で思ったことをすぐ言うようになってしまった。
「着床後に乗っていいのは自家用車くらいだって産婦人科で言われたよ」
そう言うことか。
「ありがとうございます。妊婦な心配全然ないから。行ってくるね」
今日のフォークリフトは選び放題。一番大きいのに乗りこんだ。
行こうとする私に鍵の締め方とその後の処理を説明すると、ペギーは自転車に乗って戻っていった。
作業が終わって倉庫に戻ると、スーツ男が立っていた。リフトに乗っている私の格好を上から下まで見る。
「作業服に着替えなかったんだ」
「作業服みたいなものですから」
ジーンズにダンガリーシャツ、そして防水山岳ジャケット。何か不都合ありますか?
「そのままパンフに使いたいくらい魅力的な格好だけれど、今度からはヘルメットと安全靴くらいは装備してね」
「承知しました」
あなたがシェフ、きっとポジション的にはそういう立場の人なんだろう。
ペギーに教わった通り倉庫に鍵をかけ、シャッターの閉まりを確認する。その後スーツがもう一度自分で試していた。合格点だったようだ。
「マダムなんちゃら、今日はこれからどうするの」
「人事に寄ってタイムカードの確認してから週末です。それから私、アリィでいいです。ファミリーネームは慣れないので」
「婚姓? 彼氏がこっちの人?」
いきなりプライベートにつっこんでくる。
「曽祖父の苗字です。生まれてこの方その名前で呼ばれたことはありません。
雇用契約の時人事で日本名を使わせてもらえるよう頼んだんですが、労働許可がこっちの名前になるから保険や法の関係でフランス名を使う必要があると言われました。その辺の詳しい事情は人事に聞いてください」
説明している最中に男の電話が鳴った。
「では」と黙礼して帰ろうとすると、ひょいっと人差し指で上をひっかく手ぶりで呼び止められた。
「トラックもう一台来たって。とりあえずここで待機していてくれる?」
結局昼まで出勤扱いとなり、昼ご飯を社員食堂で食べた。
なんで私は今日このスーツ男と、ペアで動いているのだろう。
空は快晴、みんなは週末。でもデザートのパンナコッタ、この人が自分の分もくれたので、今日は良い日としておくか。