映画紹介#005「マッドマックス 怒りのデス・ロード」(2015)後編
前編はこちら。
【紆余曲折を経て完成した第4弾】
『マッドマックス 怒りのデス・ロード』はシリーズ前作『マッドマックス/サンダードーム』以来、実に27年ぶりに製作された作品だ。
公開された2015年は、(6作で完結したはずだった)「スター・ウォーズ」シリーズの再始動第1弾『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』や、「ジュラシック・パーク」シリーズの再始動第1弾『ジュラシック・ワールド』が公開された年でもある。
「昔の人気シリーズが装いも新たに帰ってきた!」という意味ではこの3作は共通している。しかし上にあげた作品のようなある種、商業主義的あるいは懐古主義的な理由から続編が製作されたようにも感じられる作品と『怒りのデス・ロード』とでは出自が少し異なる。(※自分はSWもジュラシックワールドも大好きです!!)
実は『怒りのデス・ロード』はもっとずっと早く公開されるはずだった。
映画の内容について話す前に、まずは今作の製作過程を紹介したい。
ジョージ・ミラー監督が今作のアイデアを最初に思いついたのは2000年前後のこと(Wikipediaによると1998年8月)。
主演も前作同様メル・ギブソンを起用し、2001年の撮影に向けて準備が進められていた。
しかし、2001年9月11日アメリカ同時多発テロが発生し情勢が悪化。
さらにオーストラリアドルの暴落などの影響により製作中断を余儀なくされる。
ジョージ・ミラー監督は他の作品に専念しつつも、水面下では『怒りのデス・ロード』のストーリーやデザインを練り続けた。
その間にメル・ギブソンは企画を離脱し、新たな主人公として出演が予定されていたヒース・レジャーが2008年に急逝するなど、状況は変化し続ける。そして2009年、ついに本格的な製作再開の目処が立つ。
トム・ハーディ、シャーリーズ・セロンら完成版のキャストとの出演交渉が行われ、2011年にオーストラリアのブロークンヒルでの撮影準備が整う。
ようやく撮影かと思われた矢先、なんとブロークンヒルの荒野が集中豪雨の影響で緑化して花咲く草原になってしまう(!)
予定を変更して最終的には2012年にアフリカ・ナミビアのナミブ砂漠で半年間の撮影が行われた。
その後、追加撮影、ポスト・プロダクション作業を経て2015年に作品は完成した。
このように様々な苦難を乗り越えて完成に至った今作は、長きに渡る準備期間を経たことによって、ストーリー、舞台設定、キャラクター、乗り物、衣装などの小物に至るまでしっかりとしたバックグラウンドが徹底的に考え抜かれている(例えば、戦場で火を噴くギターを奏でる盲目の男ドーフ・ウォーリアーにも過去の物語が存在する!)。
作品世界が深く掘り下げられたことによって、無駄のないシンプルなストーリーでありながらも、荒廃したディストピア世界に強いリアリティを感じさせる奥行きのある仕上がりとなった。
映画製作の過程で様々な事情によって多くの変更が発生するのは常だが、それが長期に渡ってもなお企画そのものが中止にされることもなく、最終的に完成度の高い作品ができたという意味でやはり今作には特別なものがある。
こういう製作にまつわるエピソードを知ると、多かれ少なかれどんな映画も、数多くの「あり得たかもしれない幻のバージョン」の上に完成した作品が存在していると分かって、映画というのは奇跡的な瞬間が結晶化してできているのだなと思わずにはいられない。
【視覚的に物語を伝える】
そうして完成した本作の見どころは何と言っても映像表現。
息を飲むほど壮大な風景、独創的な衣装やメカ、生身のアクションの迫力などなど。どれを取っても言わずもがなの素晴らしさ。
なかでも注目すべきは、今作はストーリーそのものを映像的に表現しているところ。
ジョージ・ミラー監督は台詞とト書きで書かれた一般的な脚本ではなく、約3500枚のストーリーボード(画コンテ)を使って視覚的に物語を作り上げていった。
監督曰く、アクションはサイレント映画時代に築き上げられた「純粋な映画言語」で、今回の作品は映画館の暗闇の中で他の観客と一緒にスクリーンに吸い込まれるような体験を目指したそう。
台詞は極めて少なく、逃走と追跡によるアクションがほぼ全編に渡って繰り広げられ、それでいてキャラクターの心の機微も感じさせる(この説明、バスター・キートンの作品についてもそのまま同じことが言えそう)。
人間は「なぜ」と「だから」を使って出来事を繋げることで、物語を理解している。「Aが起きた。なぜなら、その前にBがあったから」「Bがあった。だからAが起きた」というふうに。
しかし、この映画の語り口はそれとは全く異なり「Aが起きている」という状況がひたすら連続的に描かれていく。
登場人物がどこから来て、何をしているのかを多くは説明せず、ただ彼らが現在置かれた状況にのみフォーカスすることで物語がノンストップで躍動的に展開し、臨場感がより一層高まる効果を生み出している。
一般的な三幕構成の物語の第三幕(クライマックス)だけを切り出して、ひとつの作品として成立させたような画期的な手法だ。
ちなみに、以前紹介した『メメント』の監督クリストファー・ノーランも、同様の手法での物語の構築を試みている。
第二次世界大戦で実際に起きた撤退作戦を臨場感たっぷりに描いた映画『ダンケルク』(2017)は、今作と、宇宙でのサバイバルを描いた『ゼロ・グラビティ』(2013)から影響を受けているという。
【映像から見えてくるもの】
今作は、情報量が多いにも関わらず、説明を極限まで減らして全て映像で見せているという点において、観客の側が能動的に物語を読み取る必要がある映画だとも言える(説明描写が丁寧な作品に慣れている人にとっては、頭に疑問が残ったままになるかも)。
もちろん肩肘張らなくても十二分に楽しむことができる痛快作ではある。
それに視覚的な表現はノンバーバルなものだからこそ、目の前に展開する世界をそのまま受け止めれば自然と物語に入り込める力がある。
この作品の映像からはどんなことが分かるか少し見てみよう。
例えば、時代設定。
世界観については冒頭のマックスのモノローグの除くとほとんど言葉で説明されることはない。
核戦争により文明社会が崩壊した近未来の世界だということくらい。
放射能汚染により地球環境は大きく変わり、地平線まで続く荒漠とした大地が広がる。トカゲは双頭に変異しているのが見て取れる。
イモータン・ジョーが支配する社会では、貴重な資源である水と緑が砦の頂上で管理され、下層に暮らす大多数の民衆は餓えと渇きに苦しみ、放射能の影響でウォーボーイズたちの寿命の短い(だからさらってきた人間を輸血袋として利用する)。
彼らは人間の心臓よりも頑丈な存在としてV8エンジンを崇め、イモータン・ジョーを最高指導者として命を捨てる覚悟で恭順する。また名誉の死と、死後の生まれ変わりを信じている。
健康体の女性は資源扱いされ、イモータン・ジョーの子孫を残す道具として幽閉され生活している。母乳は貴重な飲み物として、女性たちがまるで乳牛のような扱いを受けながら生産している。
砦の外に目を向けると、同じように武装した社会集団が複数存在し、僅かな天然資源を求めて、時に同盟関係を結び、時に抗争に発展するという緊張関係の中で共存している。
このような中世のヨーロッパのような殺伐とした状況に注目してみると、フュリオサたちの逃亡と叛乱の動機がより鮮明に浮き上がり、「個人の尊厳」「圧政からの解放」「フェミニズム」など作品に込められたテーマまで見えてくる。
(女性たちが幽閉されていた部屋に大きく書かれた「WE ARE NOT THINGS」の文字はひとつの重要なキーショット)
【マックスの冒険】
この流れで主人公マックスについても考えてみよう。
ここではあえてこれまでのシリーズでマックスがどのような人物として描かれていたかにはなるべく触れないでおきたい。
前作から期間もあり、役者も変わっているので、あくまで『怒りのデス・ロード』から見えてくるマックスの人物像を見ていく。
(正直なところ、過去作の内容をあんまり覚えていないのです。。)
この映画ではマックスが一体何者なのかほとんどわからない。
しかしそれが却ってマックスを魅力的な存在にしていると個人的には思う。
一匹狼のように荒野を彷徨い、過去のトラウマを抱えながらも、生存本能に突き動かされるが如く生きているマックス。
腕は立つが多くを語らず、思いがけず町の権力闘争に巻き込まれていく様は、西部劇に登場するさすらいの凄腕ガンマンのよう。
オープニングショットで愛車V8インターセプターの横に佇む姿からは、彼がこの映画の主役だということが一目見るだけで分かる。そこにはトム・ハーディが放つカリスマ的な雰囲気も大きく関わっている。
(逆にイモータン・ジョーが登場した時も、一瞬でこいつがラスボスだと分かるから面白い。)
映画の前半ではマックスはただひたすら死なないことだけを目的に行動している。自分本位で他者への思いやりや善の心は全く感じられない。
だが、フュリオサたちと協力関係が深まっていくに従って、彼のヒーロー性がどんどん前面に出てくる。
マックスの中には、もともと善の心がある。
それが分かるのが過去のフラッシュバックシーン。
彼はかつて救えなかった少女の幻影に囚われている。
救いたかったのに救えなかったたくさんの命がマックスの背後には潜んでいるのだ。その罪悪感がフュリオサと彼女の仲間たちへの気持ちに自然と接続していく。
(信頼関係が出来始めたあたりで、マックスが<ワイブス>のひとりスプレンディドに対して、親指を立てる仕草がめちゃくちゃカッコいい。)
ちなみに、フラッシュバックの出来事は過去の3作とは直接的なつながりはほぼない。過去作を見てもあの少女はどこにも出てこない。
先にも書いたようにこの映画は過去の「なぜ」を扱わないからだ。
重要なのは、今この瞬間マックスが過去の幻影を見ているという状況そのものだ。
フュリオサたちとの旅を通してヒーローとして覚醒したマックスは、彼女たちを導き、最後には勝利を収める。
序盤では血を抜かれることから逃れるために戦っていたのが、フュリオサを救うため自ら自身の血を差し出すという彼の変化も面白い。
(大丈夫?ちゃんと血液型、確認した?ってちょっと心配にはなったけど)
全てが終わったとき、シタデル砦で勝利を祝うこともなく、さすらいのガンマンの如く再びどこかへと流れていくマックス。
彼の想いがフュリオサへと継承されていくのが、ふたりが交わす視線から感じられる見事な退場シーン。
ひとつの物語が終わり、そして、彼らの人生は続く。
マックスと名乗った男の物語は、シタデル砦で長く語り継がれていくことだろう。
【フュリオサの「英雄の旅」】
マックスと並んで、本作の主役とも言うべきキャラクター、フュリオサについても見ていこう。
前編で軽く触れた、フュリオサの辿る道に神話学者ジョーゼフ・キャンベルの発見した神話構造があるという話も踏まえて考えてみたい。
古くは古代ギリシアの「オデュッセイア」から、トールキンの「指輪物語」、そして「スター・ウォーズ」を始めとする様々な映画にも見られる神話構造のあらすじを簡単に説明すると、主人公は非日常の世界に旅に出て、イニシエーションを経て、元の世界へ帰還するというもの。
基本的にはこの映画の物語はこの一文の説明に尽きる。
主人公は外的な障害と戦いつつも、物語全体を通して常に自身の内面を探る旅をしているのもひとつのポイント。
実はこの構造、先に書いたマックスの辿る道程にもそのまま当てはめることができる。この映画はマックスとフュリオサ、それぞれが英雄へと進化していく物語なのだ。
フュリオサに注目してこの構造を追ってみると、マックス以上に視覚的に描写されていると感じる場面が多い。
彼女は文字通りある場所から別の場所へと行って、そして戻るという過程を辿る。
そして、イモータン・ジョーと正面から対峙して作品のテーマと深く関わっていくのも彼女の方だ。
フュリオサの場合、イモータン・ジョーの圧政から逃れるために、彼女と同じ目的を持った5人の妻<ワイブス>とともに逃亡するところから物語は始まる。
フュリオサは「鯨の腹」に飛び込み、生まれ変わるために必要な試練への道へと突き進んでいく。
今作ではこの鯨の腹への突入描写が「砂嵐の中に突っ込む」という形で非常に視覚的に表現されているのが印象的。
この先に待ち受ける旅の困難さと、それでも突き進む彼女の覚悟が映像から伝わってくる。
嵐を抜けた後も、彼女の前には次々と試練の壁が立ち塞がる。
マックスとの衝突、ウォーボーイのニュークスによる追跡、渓谷を通過するための取引、迫り来るイモータン・ジョーとその仲間たち。
夜のシーンに象徴されるように、希望の光は遠く、それでも手探りで先へと進み続ける。
仲間の一人を失い喪失を抱えながら、それでも約束の「緑の地」を目指して旅を続ける一行。ついに辿り着いた目的の地は、土壌汚染の進行ですでに失われていたことが明らかになる。
悲嘆に暮れるフュリオサ。砂漠に響くこともなく無情に吸い込まれていく彼女の慟哭は、あまりに悲しく残酷なほど美しくて胸に突き刺さる。
その後、マックスや再会を果たした生まれ故郷の<鉄馬の女たち>の助けも借り、フュリオサはもと来た道を戻ってシタデル砦へと向かい、イモータン・ジョーに立ち向かうことを決意する。
逃げることを止めて現実と対峙することを選んだフュリオサはここから大義のために仲間を率いて立つ、真の英雄的存在となっていく。
その変化は守られる存在だった妻<ワイブス>たちの心をも戦士へと変えさせた。
仲間たちと共に、命懸けでイモータン・ジョーを討ち果たしたフュリオサ。
更に死の淵から復活を遂げたことによって神性を纏い、仲間のみならず民衆をも救った救世主として始まりの地へと帰還する。
そこにいるのは、出て行ったときとは全く違う人間に生まれ変わった彼女だ。シタデルの英雄の誕生と共に物語は幕を閉じる。
これがフュリオサによる「英雄の旅」の大まかな流れだ。
細かな部分で差はあれども多くの英雄譚には、主人公が旅に出て、試練の中で精神的に生まれ変わって元の世界へと帰還し、周囲に影響を与える師のような存在へと昇る(そして次世代へと受け継がれる)という円環構造が見られる。
この構成、古来から男性の物語として描かれてきたが、近年、今作のように女性キャラクターにも適応されることが多くなった。他の例だとディズニー映画『モアナと伝説の海』(2016)からも同じものを読み取ることができる。
【何者でもない人間も英雄になれる】
ここまでフュリオサとマックスについて多く語ってきたが、この記事を書くために映画を再鑑賞したところ、途中から仲間になるウォーボーイのニュークスにも英雄的な要素があるなと改めて感じた。
ニュークスの変貌ぶりには目を見張るものがある。
イモータン・ジョーを中心とした社会と、そこでの死生観を盲信していた彼が全てを失ったとき、初めて別の生き方と出会い、自身の存在価値に気付いていく。そこには魂の救済があり、散り際の活躍はまさに英雄そのもの。
大きなことを成し遂げるとき、真に力を発揮するのは決して選ばれた一人の人間だけではない。彼のような存在を忘れてはいけないと思った。
【支配と破壊vs守り育てること】
最後に、この映画を観て感じた個人的な感想を簡単に。
この作品の世界は退廃した社会においての人間の醜い本性が露わになっていると感じる。
皆、生きることに必死で他者への思いやりが疎かになる。
そんな時の、男女の本能的、生物学的な特徴差が興味深い。
男たちはまるで大きな赤ん坊のよう。
(「鬼滅の刃」をご存知の方は、鬼舞辻無惨の最後の姿をイメージしてもらえれば分かりやすいかと)
彼らは常に権力闘争の中に身を置き、破壊と独占と支配に走る。
欲が深く、怒りっぽい。母乳を飲んでいるというのも示唆的だ。
武器の量やエンジンパワー、車体の大きさで力を誇示するのは、
本質的には男性的強さをアピールする行動と言える。
ある意味、銃そのものが男根の象徴と捉えることもできる。
力は狩猟採集の時代においては生存のために重要なものではある。
ただ、現代の文明社会の基準に照らして考えると、どうしても力の扱い方がプリミティブでとても幼稚だと思えてしまう。
もちろん適度な男性らしさはその人の色気として魅力にもなる。
それでもできれば今作に登場する男たちみたいにはなりたくないなぁと個人的には思う。
一方で今作の女性たちに注目してみると、
彼女たちからはそのような野蛮さはあまり感じられない。
より現実的に物事を考え、多少の衝突はありながらもお互いが協調し合う関係性を築いている。
破壊するために戦うのではなく、守るために戦う。
無用な争いは望まない。
<鉄馬の女たち>も自らの縄張りで罠を仕掛けはしているが、どこかに攻め込むようなことはない。
今作の女性たちには男性たちが持っていない、より長期的な時間感覚があるように思える。
そのことを象徴しているのが、<鉄馬の女たち>の老女が大切に持っている植物の種子を集めた鞄の存在。
植物も、人間も、文化も、育て育むことは破壊すること違って大変な時間と労力がかかる。
それでも、その地道な努力の時間の先にこそ真の希望がある。
老女は戦いの中で命を落とすが、植物の種子は<ワイブス>の一人によって彼女の想いと共に受け継がれていく。
一人の人間の一生を超えた時間の流れに大きな意味が感じられるシーンだ。
この話を通して男性より女性の方が優れていると言うつもりはない。
それぞれが良いところも悪いところもあるのが本当のところだろう。
それでも現実の社会においても、この映画の女性キャラクターから読み取れるような特徴が、社会を良くしていく力になると個人的には強く思う。
ということで、どうしても最後には現実の事柄と結びつけて考えがちですが(苦笑)、以上、今回紹介した作品はジョージ・ミラー監督作品『マッドマックス 怒りのデス・ロード』でした。
正直、自分はこの映画の大ファンというわけでもなく…この記事を書き始めるまでは、まさかこんなにもたくさん語りたいことが出てくるとは思ってもみませんでした。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
参照元、参考文献
『マッドマックス 怒りのデス・ロード』ジョージ・ミラー監督インタビュー
What Dunkirk owes to Mad Max: Fury Road - Entertainment Weekly
ディズニー版『マッドマックス』!? 『モアナと伝説の海』戦闘シーン公開
「脚本を書くために知っておきたい心理学」ウィリアム・インディック著