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続・修身教授録 - 感想・引用

著者プロフィール: 森 信三
明治29年9月23日、愛知県生まれ。大正15年京都大学哲学科卒業。
昭和14年旧満州の建国大学教授、28年神戸大学教授。
「国民教育の師父」と謳われ、86歳まで全国を講演、行脚した。平成4年逝去。著書は多数ありますが、中でも『修身教授録』は教育界のみならず、愛読書として挙げる経営者やビジネスマンも多く、いまなお人々に感化を与え続けている。

『致知』を知るために知っておきたい先達たち 森信三

今回の記事は、「国民教育の師父」と謳われた哲学者、森 信三の本、『修身教授録』の続編です。非常に学びの多い一冊になっています。

この記事では、本の要約をするのではなく、輪読会を行うにあたり、私が読んだ感想や本からの学び、一部引用を紹介するものです。輪読会用のメモなので、一般的な記事のようにきちんと整理されているわけではないのでご了承ください。

感想

引用

立志

そもそも世の中のことというものは、真実に心に願うことは、もしそれが単なる私心に基づくものでない以上、必ずやいつかは、何らかの形で成就せられるものであります。

意地と凝り性

おおよそいつかひとかどの人物になる人は、小さい頃から、いろいろその特徴が出ているようですね。その中から今 一つ二つ取り出してみると、意地とか凝り性とかいうものも、その一つと言うてよかろうと思います。

そもそも偉人と言われるほどの人間は、何よりも、偉大な生命力を持ちた人でなくてはならならぬはずです。しかもそれが真に偉人と呼ばれるためには その偉大な生命力がことごとく純化せられねばならぬのです。

気品

いかなる修養が、人間の気品を高める上に役立つかと申しますと、もちろんそれが修養と言われるものである以上、いかなる修養も、気品を高める上に役立たないものはないでしょう。しかしそのうちでもとくに根本的なものは何かというと、私の考えでは、内心のけがれを除くということかと思われます。すなわち「慎独」、つまり独りを慎むということでないかと思うのです。

情熱

最後に、諸君の現実問題の一つとして、自分の情熱を深めていくには、一体どうしたらよいかというに、それはやはり偉人の伝記を読むとか、あるいは優れた芸術品に接することが、大きな力になることでしょう。そしてそれを浄化するには、宗教及び哲学が大いに役立つものです。

三十年

私がここに「三十年」という題を掲げたのは、実は人生の正味というものは、まず三十年くらいのものだという意味です。実際人間も三十年という歳月を、真に充実して生きたならば、それでまず一応満足して死ねるのではないかと思うのです。

伝記を読む時期

私の考えでは、人間は一生のうち、とくに伝記を読まねばならぬ時期が、大体三度はあると思うのです。そして第一は大体十二、三歳から十七、八歳前後にかけてであり、今一つは、三十四、五歳から四十歳前後にかけてです。そのうち最初の方は立志の時期であり、また第二の時期は発願の時期と言ってよかろうと思うのです。すなわち人間は十二、三歳から十七、八歳にかけては、まさに生涯の志を立てるべき時期です。すなわち一生の方向を定め、しかもその方向に向かっていかに進むべきかという、腰の構えを決めるべき時期です。しかもこの時期において、最も大なる力と光になるものは、言うまでもなく偉人の足跡をしるした伝記です。

そして人間は、三十五、六から四十前後にかけて、もう一度深く伝記を読まねばならぬということに気付き出したのです。ではそれは何故かと言うに、人間はその年頃になったら、自分の後半生を、どこに向かって捧ぐべきかという問題を、改めて深く考え直さねばならぬからであります。その意味において私は、もう一度深く先人の足跡に顧みて、その偉大な魂の前に首を垂れなければならぬ、と考えるようになったのです。先の第一期を立志のためとしたら、今度は発願のための読書です。

人生の深さ

すなわち人生を深く生きるということは、自分の悩みや苦しみの意味を深く噛みじめることによって、かような苦しみは、必ずしも自分一人だけのものではなくて、多くの人々が、ひとしく悩み苦しみつつあるのだ、ということが分かるようになることではないかと思うのです。

質問

偉業をなしとげるような人は、どういう風格を持 っているかということが、よく分かりますね。 第一は、自分のやりたいことはすぐにやる。つまり自 分が本当にしたいと思ったことは、何物をなげうってもただちにそれをやる。たとえば本が読みたくなれば、たとえそれが真夜中でも、すぐに飛び起きて読むといった調子です。 どうもこの辺に、偉大なる人に共通した特徴があるようです。そしてもう 一つは、夢中になるということです。夢中になることのできない人間は、どうも駄目なようですね。

それからもう一つは、最後までやり抜くということです。人間が偉いか偉くないかは、これで岐れるのです

とにかく人間は徹底しなければ駄目です。もし徹底することができなければ、普通の人間です。 とにかく人生は二度ないのですから。

忍耐

忍耐ということにはどういう意味があるかと申しますと、大体二つの方面があるかと思うのです。すなわち一つには、感情を露骨に現さないようにする、とくに怒りの情を表さないように努めるという方面と、今一つは、苦しみのために打ちひしがれないで、いかに永い歳月がかかろうとも、一旦立てた目的は、どうしても、これを実現せずには己まぬという方面です。前のを堪忍と言い、後の方を隠忍と呼んでもよいでしょう。

下坐行

人間を鍛えていく土台は、 一体どういうものかというに、私はそれは 「下坐行」というものではないかと思うのです。すなわち下坐行を積んだ人でなければ、人間のほんとうの確かさの保証はできないと思うのです。

下坐行とは、先にも申すように、自分を人よりも 一段と低い位置に身を置くことです。言い換えれば、その人の真の値打よりも、二、三段下がった位置に身を置いて、しかもそれが「行」と言われる以上、いわゆる落伍者というのではなくて、その地位に安んじて、わが身の修養に励むことを言うのです。そしてそれによって、自分の傲慢心が打ち砕かれるわけです。すなわち、 身はその人の実力以下の地位にありながら、これに対して不平不満の色を人に示さず、真面目にその仕事に精励する態度を言うわけです。

二種の苦労人

苦労というものは、その人から甘さをとって、一応しっかりさせることとは言えましょう。つまり、その人からお目出たさを除くことは確かですが、しかし同時に、お目出たくないと言っても、そこには二種の異なったタイプの苦労人が出来上がるようです。つまりお目出たさがなくなって、甘さが消えたという点では同じですが、しかし苦労したために、人の苦しみに対してもよく察しができて、同情心を持つようになる場合と、反対に苦労したために、かえって人間がえぐくなる場合があるようです。

人が自分を内省して、 少しでも自分の真実の姿を求めるようになるには、まず道を知るということと、次には苦労する響という、この二つのことが大切だと思うのです。 間は、道すなわち教えというものに出合わないことには、容易に自分を反省するようにはならないものです。しかしながら、人間が深く自己の姿を顧みるには、どうしても人生の 現実に突き当たらねばならぬわけです。

平常心是道

人間は、この「暑い」「寒い」と言わなくなったら、そしてそれを貫いて行ったとしたら、やがては順逆を越える境地にも至ると言ってよいでしょう。ここに私が順逆というのは、ていねいに言えば 「順境逆境」ということです。 ですから順逆を越えるとは、順逆にあってもへこたれないということです。この境地にまで至らないで、ただ「暑い」「寒い」と言わないだけでは、実はまだ痩我慢の域を脱しないとも言えましょう。

要するに平生が大事なのです。このことを音の人は、「平生心是道」と申しています。 つまり、 剣を持ったり、坐禅をしている間だけが修業ではなくて、むしろ真の修業は、竹刀を捨て坐禅を解いてから始まるというわけです。人間もこの辺の趣が分かり出して初めて、道に入るのです。

試験について

人間というものは、現在自分の当面している仕事をまず片付けて、しかるのち、余力があったら、自分の根底を養うような修養をすべきでしょう。もしこれに反して、自分のなすべき当面の仕事をなおざりにしておいて、他の方面に力を注ぎますと、仮にそうして力を注いだ方面は、根本的な事柄であり、またその努力がいかに大きなものであっても、こういう人は、いつかは世間からその足場を失って、抱きながら、それを発揮する機会を得ないで、空しく朽ち果てるのが世の常です。

学校の成績というようなものは、その人の実力を、そのまま示すものではないとも言えましょう。しかしその人の忠実さ、その人の努力、さらに申せば、その人がいかほどまで、自分のなすべき当面の仕事をなし得る人間か否かということは、かなりな程度まで、これを示すと言ってよいようです。 ですから私は、学校の成績というものは世間でふつうに考えているように、必ずしもその人の素質を確実に窺い得るものとは思いません。それよりもむしろ、その人の素質と努力との相乗積を示すと考えた方がよかろうと思うのです。同時に私のこの考えは、学生時代から二十数年後の今日に至るまで、少しも変わらないのです。

ねばり

つまり油はほとんど出し切って、もはやエネルギーの一滴さえも残っていないという中から、この時金輪際の大勇猛心を奮い起こして、 一滴また一滴と、全身に残っているエネルギーをしぼり出して、たとえば、もはや足のきかなくなった人間が、手だけで這うようにして、日の前に見える最後の目標に向かって、にじりにじって近寄っていくのです。これがねばりというものの持つ独特の特色でしょう。

そこで私は、このねばりというものこそ、仕事を完成させるための最後の秘訣であり、同時にまたある意味では、人間としての価値も、最後の土壇場において、このねばりが出るか否かによって、決まると言ってもよいと思うほどです。すなわち百人中九十七、八人までが投げ出すとき、ただ一人粘りにねばりぬく力こそ、ついに最後の勝利を占める、最も男性的な精神力と言うてもよいでしょう。

一日の意味

では一日を真に充実して生きるには、一体どうしたらよいかが問題でしょう。その秘訣としては私は、その日になすべきことは、決してこれを明日に延さぬことだと思うのです。そしてそれには、論語にある「行って余力あらば以て文を学ぶべし」というのが、一つのよい工夫かと思うのです。

置土産

人間は一つの場所を去る場合には、後に残った人たちに多少でもお役に立つような、何らかの置土産をしていくとい う心がけが、平素から必要ではないかと思うのです。

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