【旅行記】私と旅⑧「私と京都」
ここ数年、頻繁に京都へ行っている。はじめはよそよそしく感じられたあの街の雰囲気が、最近は気に入っている。
静かで密やかな「死」の香り
私が京都に魅せられるのは、「死」を強烈に意識させるからだ。それは逆説的に「生」を際立たせる。近代的な街並みの中に突如現れる古い建物、時間が止まったような枯山水の庭、生きていた状態を想像させる状態で出される鮮魚や野菜…
以前、私はヴェネツィアにも「死」を感じると書いたが、あれとは異なり生々しい血の匂いはしない。もっと静かで密やかなものである。
最高の庭と料理
京都の庭園というと龍安寺が有名だが、光明院はもっと素晴らしい。
東福寺の方丈庭園で有名な重森三玲による庭は時間が止まったような不思議な感覚がある。小さいながらいつまでも時間を過ごすことができる。数ある京都の寺院の中で、私が最も好きな場所だ。
料理は祇園の千花で食べる。
シンプルだが染み入るスープはどれも絶品で、出汁の力を実感できる。また、塩昆布で食べる刺身も深みがあって良い。これを知ってしまうと、鮮魚の身を醤油に浸すという行為が野蛮にさえ思えてくるだろう。
京響の素晴らしさ
そんな京都でクラシック音楽を聴くというのはどのようなものか。不釣り合いに思える組み合わせだが、京都市交響楽団の演奏は大変すばらしい。
東京で日本のオーケストラの演奏を聴くと、それはそれで十分に素晴らしいものの「これがベルリン・フィルだったら、どんなに素晴らしいだろう」などと感じていた。それが不思議なことに彼らの場合は皆無で、いま・ここで・彼らにしか出来ない音楽だと心の底から肯定できるのだ。
例えば、広上淳一指揮のマーラー交響曲第7番は、冒頭からコーダまで屈託無い。これほど全体として健康的でポジティブにまとめたマーラー7番もないだろう。しかし、その対比としての「死」を、もっと言えばクラシック音楽の終焉をより一層感じたのである。フィナーレを聴きながら、底抜けに明るいファンファーレの裏に隠された数多の死を思い浮かべてぞっとした。
残酷な美意識
千利休は朝顔の花の美しさを際立たせるために、庭のすべての花を刈り取り、床の間に一輪だけ生けたという。この美意識は残酷で恐ろしいものだが、たしかに言い知れぬ美を感じる。それを感じるために私はこれからも京都へ行くだろう。
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