よくも悪くも人は「エピソード」から逃れられない | 平野啓一郎さん 『透明な迷宮』
ときたま、昔付き合っていた女性のことを無性に想い返すことがある。
最後に会ったのはもう10年前。今はお互いに連絡先を知らないので、会うことはもう二度とないだろう。
それでも、「元気かな」「もう結婚して、子供もいるのかな」「今でも、伊坂幸太郎さんの小説を熱心に読んでたりするのかな」なんて考えたりする。神様の気まぐれで運命的再会が発生しないものかと願ってしまう時もある。そんな時、山崎まさよしの『One more time、One more chance』が無性に聴きたくなる。
でも、出会い直して、改めて関係を作れるかというと、それは多分、いや絶対に不可能だろう。それなりに性格や価値観で相容れないものがお互いの間に流れていたからこそ関係は続かなかったのだし、年月を経て冷静に振り返ることで、その溝の正体も見えてきた。
Mr.Childrenは『幸せのカテゴリー』で、こう歌っている。
日のあたる場所に続く道、違う誰かと歩き出せば良いさ。恋人同士ではなくなったら、君のいいところばかり思い出すのかな?当分はそうだろう。でも、君といるのは懲り懲り。
まさにこれ。会ったら、また懲り懲りするのは目に見えている。それなのに、ときたま無性に会いたくなる。これは今でも、その相手に対して「好き」とか「愛」いった強い感情が心に残っているのか…??
そんな自分の割り切れない気持ちに「なるほど、そういうことか」と終止符を与えてくれた小説がある。
それが、平野啓一郎さんの『透明な迷宮』だ。
◇
平野さんの小説は、生きる「経典」だ
僕は平野啓一郎さんの熱心な読者だ。これまでに発売された小説は、長編はもちろん、短編も新書も網羅的に読んでいる。
平野さんというと、福山雅治さん・石田ゆり子さん主演で映画になった『マチネの終わりに』で知っている人が多いのではないだろうか。
『マチネの終わりに』を語る時、「大人の恋愛小説」「美しい表現に溢れた小説」みたいな言葉を添えられることが多いが、この作品を恋愛小説として括るのはもったいない。
僕は、この小説をカテゴライズするなら「ヒューマンドラマ」として紹介したい。天才音楽家として活躍を続けてきた主人公(蒔野)が、人生ではじめて自信を喪失し、前に進むことができなくなってしまった状態から再生する物語だからだ。
どんなに才能を持っている人でも、ずっと活躍し続けることはできない。自分が頼りにしてきたものを見失った時の処方箋として、『マチネの終わりに』を読む人が増えてほしいと思う。
そう、僕が平野さんの小説を熱心に読んでいるのは、平野さんの小説には「いかにして生きるべきか」というテーマが、どの作品にも根底として流れているからだ。
そして、生きていくためには「自分を愛すること」が不可欠であり、「そもそも”自分”とは何か?」「そもそも”愛”とは何か?」という問いに対して、思考を深めていくのが平野作品の最大の魅力なのだ。
平野作品を読みだしたのは2年くらい前からだが、読む前後で、心の持ちようがだいぶ変わったと思う。平たくいうと、生きやすくなった。詳しいことは別のnoteに書くとして、平野さんの小説は僕にとって「仏教の経典」のような存在なのだ。
入り口も出口もない『透明な迷宮』で彷徨う
さて、『透明な迷宮』についてだ。
『透明な迷宮』は2014年に発売された短編小説集で、今回紹介したいのはその表題作。文庫本にして50ページほどのボリュームだ。
熱心な平野作品の読書である僕だが、はじめて読み終わった時、迷宮に置いてきぼりにされた気分だった。入り口もなければ、出口もない。平野さんはこの作品で何が言いたかったんだろう…。それが率直な感想だった。
あらすじをザッと説明すると…
ー ▼ネタバレ入ります ー
ネタバレしても楽しめる小説だと思いますが、結末を知りたくない方は、読んでから、また戻ってきてくれると嬉しいです。
小さな貿易会社に勤める主人公の岡田(30代後半・男性)は出張でブタベストを訪れた際に、会社を辞めてヨーロッパを転々と巡っているミサという8歳年下の日本女性と知り合う。会って間もないうちに彼女に魅力を感じはじめた岡田は、その夜、あるパーティーへ同行することになるのだが、そこで事件は起きる。
館に監禁され、岡田とミサを含めた男女6人ずつは裸にされて、さまざまな組み合わせで見物人たちの前で愛し合うことを強制される。不幸中の幸いというか、岡田とミサは他の男女とことに及ぶことは求められなかったが、「日本人的に愛しあえ」という要求を受けて行為をすることになる。
夜明け前には解放されて、2人はホテルに帰る。その後、一緒に日本に帰る約束をして別れるのだが、ミサは空港には現れない。
岡田は、ミサのことが忘れられなかった。日本に戻ってから数ヶ月後、ミサから連絡が届き、2人は再開する。
「この三ヶ月というもの、俺は君のことを憎んできた。どうしても赦せなかった。……君に傷ついてほしかったし、多分、それ以上の何かさえ期待してた。」
ミサは一瞬目を瞠ったが、何も言わずに頷いた。
岡田は、空港に来なかった理由を、敢えて尋ねなかった。その代わりに、もう一つの率直な気持ちを言葉にした。
「それでも、君に会いたかった。」
それから岡田とミサの関係は復活するが、岡田は今でも、あの見物人たちから見られている意識が消せないことを告白する。その記憶を上書きするために、自分たちの行為をビデオで撮影・録画することをミサは提案する。2人は何度となく撮影を試み、事後には必ず一緒に映像を見た。その試みは功を奏し、見られてる意識は薄れ、ミサとの関係はより親密なものへと向かっているかのように思われた。
だが、パッタリとミサと音信不通になる。岡田はミサに何度も連絡をとるが返信はこない。自分の何が原因なのかを自問し続ける日々が続く。
季節が変わった頃に、また突然にミサから連絡が届き、会うことになる。すると、岡田の目の前でミサは2人になった。ミサは双子の姉妹だった。
ひとりは、岡田がブタベストで会った姉の「美里」。もうひとりは、彼が半年の間、関係を持ち続けてきた妹の「美咲」。
美里は、あの夜の悪夢を克服する自信がなかった。岡田と一緒にいる限り、忘れることはできない。でも、岡田のことは気になっていたので、代わりに美咲に代わりに会いに行ってもらうことにした。曖昧な態度でふたりの関係を終わらせることを美咲に期待して。
だが、美咲は一目会って岡田に好感を持った。ちょうど、美里がブタベストで一目見て岡田に交換を持ったように。
……と、こんな物語が展開される。
8割程度のあらすじを説明してしまった。ただ、この後の議論上、「姉妹」という設定を共有しないわけにはいかなかったのだ。
人は「エピソード」のために愛するのか
性的な描写が多く、そのうえ平野さんの文章は艶めかしいので、官能的な部分に目が引かれるが、この物語は「岡田とミサの恋愛小説」である。
ただ、特徴的なのは、ミサが2つの人間に別れてしまうことだ。
岡田は「姉妹」である事実を知ったのちに、改めて美里を強く求める自分に気づく。美咲から関係の継続を求められた岡田は、こう答える。
「君自身、……君は魅力的だよ、もちろん。でも、俺は。あんなことに共に巻き込まれて、それでも先に立ち直って、とにかく生きようとしているその姿に心を動かされたんだ。きっかけって言っても、駅で目が合ったとか、そんなのじゃない。君にはどうしてもわからないことがある。」
「それがあると何?もうわたしを愛せない?愛してない?」
実際、岡田は美咲を深く愛していたと思う。美咲の発案のおかげで、ブタベストの悪夢を振り払い、自分を建て直すことに成功していた岡田は、一層の深い関係になることを望んでいたはずだ。だからこそ、突然の音信不通の後に、何度となく連絡をした。
でも、ブタベストでの体験を共有していたのが美里だとわかると、美咲への愛は醒めたものになってしまった。
『透明な迷宮』で、こんな印象的な一節がある。
人は、たった一つのエピソードのために、誰かを愛するのだろうか? 愛を受胎するのは、二人の間の出来事なのだろうか? そうではなく、相手の人格を全体として愛するのではないだろうか?
エピソードを共有している「美里」。半年間、自分の苦しみに寄り添ってくれた、でもエピソードを共有していない「美咲」。物語では、美咲ではなく、美里の存在を強く求める岡田の姿が描かれる。
この物語はエピソードが持つ抗いがたい「引力」が大きな主題だったのだ。
平野さんは『透明な迷宮』発売直後のインタビューで、こう語っている。
平野:ドラマや小説は、人を愛する理由を「エピソード」に凝縮させていくものなんですよ。たとえば風邪を引いたときに看病してくれたとか、その程度のものでもいいんですけど、じゃあ、仮にそのエピソードがなかったら、その人を好きにならなかったのか。そんなことを真剣に考えていたんです。
で、自分の人生を振り返ると、もっと深い関係になってもよさそうだったのに、そうならなかった人が何人かいる。それは、なぜなのか……。
(引用元)【前編】人は「エピソード」で誰かを好きになるのか
どんなに献身的に尽くしてくれても、その姿に愛情を感じつつも、その起点となるエピソードを共有していない美咲は、美里の存在を上書きできない。平野さんは、このエピソードが持つ「引力」の強さを引き出すために、姉妹の入れ替わりというトリッキーな要素を作品に入れたのだろう。
どこまでが自分の「意志」なのか?
果たしてエピソードが持つ引力とはそこまで強力なのだろうか?
自分の苦しみに寄り添い、自分に好意を寄せている美咲を振り切って、美里を求める岡田の姿が、どうも理解に苦しむところがあった。
だが、「吊り橋効果」の視点を持つと納得ができる。
これはカナダの社会心理学者が行なった実験からきている。実験では、若い男性たちを二つのグループに分け、高さ70メートルの吊り橋と揺れない橋とをそれぞれに渡ってもらい、橋の途中で突然美女にアンケートの協力を求められる。「結果に興味があれば、後日電話をかけてきてください」と女性が伝えておいたところ、揺れない橋の被験者のほとんどは電話しなかったのに対して、吊り橋の方は半数が電話をかけた。
なぜか? 後者は、吊り橋を渡っているためにドキドキしているにも関わらず、それを女性に対する恋心だと勘違いして解釈してしまったのだ。
この実験から、緊張体験を共有した異性に対しては恋愛感情を抱きやすいことが導かれ、恋愛心理の本に「吊り橋効果」は登場することが多い。
職場の上司やジムのインストラクターに対し、ときめきを抱く人が多いのは、自分が不慣れなことをする恐怖感にプラスして、目の前の指導員やインストラクターが颯爽と難しいことをこなしている姿に興奮して、心拍数が上がることを脳が「恋」と勘違いしてしまうことが原因だという説もある。
「吊り橋効果」の視点で考えると、岡田が美咲のエピソードは、まさに揺れる吊り橋での出会いそのものだ。いや、揺れる吊り橋よりも圧倒的に恐怖感が高い出来事だろう。このエピソードを共有している美咲にこだわってしまう理由も、この視点を持つと納得できる。
だが、このエピソードは岡田と美里が望んだものではない。偶然巻き込まれたものだ。対して、東京での半年間は岡田と美咲が互いに望んだものだ。意図的に温めてきた愛が、偶然によって生まれた強烈なエピソードに屈する瞬間を、『透明な迷宮』では目にすることになる。
このことを踏まえると、果たして誰かを「好き」になるとか、「愛する」といった行為は、どこまでが自分の意志で、どこまでが環境によって左右されているのか(運命づけられているのか)わからなくなる。
先ほど紹介したインタビュー記事で、平野さんはこう語っている。
平野:21世紀になって、格差社会とか新自由主義とか自己責任とかさんざんいわれてきて、「自分の努力でどうにかなる」みたいな言説も生まれましたけど、社会自体はむしろ個人の努力ではどうしようもない領域のほうが大きくなっている。意識さえせずに、色んなことにコントロールされてる。
一方で、僕たちは地震や津波といった、それこそ人間には抗いようがない自然災害も経験しています。
—— 自分は、どこまで自分の意志で行動できるのか。考えだすとちょっと不安になりますね。
平野:目に見える迷宮なら、出口を見つけられるかもしれないんですけど、それが不可視な感じがするんですよね。
(引用元)【前編】人は「エピソード」で誰かを好きになるのか
なるほど。『透明な迷宮』とは、自分の意志で行動しているように見えて、実は見えない壁に沿って歩かされている僕らの状況を暗示していたのだ。
『マチネの終わりに』へと物語は続く
そして、『透明な迷宮』の構造は『マチネの終わりに』に受け継がれていくことになる。
『マチネの終わりに』に登場する洋子と早苗は美里と美咲を、蒔野は岡田を受け継いだキャラクターであるように思える。
蒔野と洋子の出会いは、蒔野にとって「人生最悪の夜」といってもいいタイミングで訪れる。性質こと全く違えど、岡田がブタベストで体験した悪夢と重なるところがある。その最悪の状態の中で、蒔野も岡田同様に、相手に深く惹かれる部分を見出していくわけだが、これを「吊り橋効果」と呼ぶことは邪推だろうか。
そして、ふたりが運命的なすれ違いをした後、早苗が蒔野を支え、結果的に蒔野は音楽家として再始動していくのだが、その早苗の姿は美咲が岡田に対して行なった献身に似ている。そして蒔野は早苗を確かに愛していた。
早苗が蒔野に犯してしまった過ちを告げた後の文章を引用する。
早苗の告白以後、蒔野は、妻に対する幾重もの矛盾した感情に苦しんでいた。
冷たく激しい憤りと何となく寂しい思いやり。突き放すような軽蔑と見捨ててもおけぬ憐憫。その言動の一つ一つに対する根本的な不信と、これまで以上の深い理解。そして、一度ならず別れるという決断にさえ心を傾かしめた嫌悪と、もう既に愛着と呼んだ方が近いような慣れ親しんだ愛情。……
◇
妻を赦すべきであることはわかっていた。結果が幸福であるのならば、何を以てその原因を否定すべきなのだろうか。
自分は決して、洋子を失い、その代わりとして仕方なく早苗と結婚したのではなかった。彼女という一人の人間を確かに愛していたからこそ、今日まで生活を共にしてきたのだった。そして、気を許せば今にも変わってしまいそうなその脆い過去を、努めて元の姿のままに留めおいた。
だけれども、蒔野は洋子を忘れることもできない。
ただ、蒔野の洋子と早苗に対する「愛」は、同じ愛でも違った性質のものとなっている。役割というか、得られるものが違うのだ。
年齢も随分と下で、マネージャーと音楽家という関係の名残は、なかなか抜けなかったが、一足先に向こうは、自分を愛し始めているのだった。凡そ、今より悪い時もあるまいという、人生のこの時に。自分も愛することが出来るだろうと蒔野は思い、そうではなく、今自分が彼女に抱いている好感に、そのまま愛と名づけるべきだと考えた。洋子から得られていたものは、一切、求めるべきではなく、彼女の存在と共にそれはもう忘れるべきだった。……
『マチネの終わりに』の最後は、蒔野と洋子が再開し、見つめ合うだけで、お互いの中にエピソードが息づいていたことを確認し合うシーンで終わる。
だけれども、この後、ふたりはそれぞれの生活(現実)に戻っていったのではないかと思う。
ふたりが出逢った当時は、スランプに陥ったり、テロに巻き込まれたり、お互いに困難な局面を迎えていた。また、序文の表現を借りると、四十歳という、一種、独特の繊細な不安の年齢に差し掛かっていた。人生の暗い森から抜け出すためにお互いを必要としていたのだろう。
だが、最後のふたりは、森から抜け出し、日の当たる場所へと戻ってきたた。成熟したふたりには、過去に求めあっていた性質の「愛」はもう必要ない。ふたりの間に流れるエピソードを慈しみながら、目の前にある「愛」を大切に育てる道をふたりは選択していくように僕には思える。
『マチネの終わりに』の終わりに、『透明な迷宮』の最後に登場する言葉を付け加えると、とてもフィットがある。
彼らの一瞬は、永遠へと飛躍しない。しかし退屈した永遠が、酔狂に、こんな取るにも足らない一瞬に身を窶す、ということはあるのだった。
実は、『透明な迷宮』の最後の一文で、岡田は美里ではなく、最終的には美咲的な愛を求めることが仄めかされている。
あの日の朝のように、岡田は美里を見送った。
彼女は遠ざかって行く。そうしてしばらく時間をおいて、彼は美咲と再会することになるだろう。この透明な迷宮のどこかの一隅で、出口を求めて彷徨い歩いた果てに。……
現実に立ち返るために、時間をおく必要があるかもしれないが、蒔野は早苗の待つ場所にきっと戻っていくだろう。
どうやって「エピソード」と折り合いをつけるか?
さて、冒頭で話をした女性の話だが、実は僕が社会人になって間もない頃に好きになった相手だった。
まるで自分の思い出に泥を塗るような気分だが、今振り返ると「吊り橋効果」の影響を受けていたのかも…と思うところがある。相手も同じ会社の新卒同期で、お互いに人生初の社会人生活で手一杯だったし、仕事が苦しかった。相手の存在がなければ、会社に行く気力はとうに失せていた。
だから、ある種、岡田と美里のように悪夢のような出来事のなかで、身を寄り添っていたエピソードとして根付いているのだ。
『マチネの終わりに』に、こんな一節がある。
彼は、自分はもう、洋子を愛したように誰かを愛することはないだろうと思っていた。そんな早まった考えは、十代の少年の、瑞々しい失恋にこそ相応しいようであるが、その実、彼は、四十歳という年齢の故に、むしろ無知とは真逆の静かな諦念によって、ゆっくりとそう結論を下したのだった。
なんて甘い文章なんだと、はじめて読んだ時は思ったが、論理的に考えると納得できる。運命の人のような出会いは、自分の意志だけではどうにもならない。自分を極度の不安状態に陥らせるような、人生における嵐が吹き荒れない限り、そんな体験はやってこないのだ。
そして、人を重ねるごとに基本的に不安を飼いならそうとする。僕も経験を積み重ねていくことで、ちょっとやそっとのトラブルでは動じなくなってきた。「悟り」を積み重ねていると言ってもいい。
おそらく、その相手を愛したように誰かを愛することはないだろう。でも、それは未練があるとか、今でも好きだとか、そういうことではない。もう二十代特有のあの不安的な時代は戻ってこないという純然たる事実だけだ。
時代は終わった。でもメロディーだけはまだ鳴り響いている。そのメロディーの正体が上書きされないまま残った「エピソード」なのかもしれない。
先ほど紹介したインタビュー記事の最後に、平野さんはこう語っている。
—— 自分の意志とは関係なく生かされている部分が少なからずある、ということをまず意識すると。
平野:そのうえで、ある人と運命的な出会いがあったらそれは喜ばしいことだし、別れてしまったらもうしょうがないと思うしかない。あるシチュエーションを、自分が生きやすいように解釈しながら迷宮と折り合いをつけていく感じですかね。この「透明な迷宮」という世界観には、この作品で初めてたどり着いたので、今後もうすこし深めていきたいです。
(引用元)【前編】人は「エピソード」で誰かを好きになるのか
この「あるシチュエーションを、自分が生きやすいように解釈しながら迷宮と折り合いをつける」という問いを深めた末に、『マチネの終わりに』の「未来は常に過去を変えていく」というメッセージに辿り着いたのではないだろうか。
未来は常に過去を変えていく
よくも悪くも、人はエピソードからは逃れられない。
記憶から削除もできず、上書きもできないものとして、共に歩んでいくしかない。でも、それはかつてあった「愛」というほど激しくもなければ、「想い出」というほど温かみもない何かだ。
その何かに解釈をつけて折り合いをつけていくしかない。それが「未来は常に過去を変えていく」ということだろう。
『マチネの終わりに』は、とても悲しい物語のようにも思える。運命的なすれ違いがなければ、ふたりの未来は全く変わったものになったかもしれない。でも、それを言い出したら仕方がない。この透明な迷宮がふたりを分け隔ててしまったのだ。
大切なのは、過去の愛を温め直すことより、過去のエピソードをどう解釈して、透明な迷宮に折り合いをつけていくかだろう。そうしないと、破滅的な未来が待っている気がする。
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『透明な迷宮』以降に発売された、『マチネの終わりに』『ある男』は、自分の意志や力ではどうしようも出来ない社会(透明な迷宮)において、どう振る舞うべきかの「処方箋」を与えてくれる作品だ。
そして、その2つの物語の出発点となる『透明な迷宮』は、そもそもの「問い」を与える作品に仕上がっている。
『マチネの終わりに』を気に入った人は是非ルーツとなっているであろう『透明な迷宮』を読んでみて欲しい。そして、まだどれも読んだことのない人は、『透明な迷宮』から順に読んでいくと面白いと思う。
平野さんの作品は時系列順に追うことで、「生きる」とは何か、「愛する」とは何かを、平野さんと一緒に考えられるところが面白い。ひとりでも平野作品の読者が、そして語り合える仲間が増えてくれたら嬉しい。
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最後まで読んでいただき、ありがとうございました!
こんなに長い文章をここまで読んだ方とは友達になれそうです(笑)。
実は今回の『透明な迷宮』の記事は、コルク代表の佐渡島さんがnoteで行なっている「文学サークル」の課題図書として改めて読み込んだことがキッッカケで書いています。
小説などの文学作品は、ワインやコーヒーと一緒で、ひとりではその作品を味わいきるのが難しいですが、このサークルで語り合うことで、以前は気づかなかった味わいが増えました。
もし文学の嗜み方を学びたい(深めたい)と人がいたら、「文学サークル」への入会を検討してみてください。一緒に作品について語り合いましょう!
ちなみに、次の課題図書は村上春樹さんの『風の歌を聴け』です。