生まれや育ちで断ずる罪深さ
たとえば、いつの頃からかよく言われるようになった“虐待の連鎖”って言葉。
被害にあった経験者の心を奈落の底に突き落とす。もしもたとえそれがかなりの確率で事実としても、決めつける言い方は避けるべき。人を絶望させる言葉はどんな場合も罪。
経験がない者がある者に対して残酷な言葉を放つ、ということが軽く行われがちだと思う。それが、あたかも正当であるかのように。
そういうこと、田房永子さんがエッセイでもよく書かれていて賛同するのだけれど…底意地の悪い大人がけっこういます。発言者の大部分が良識的でも、そうでない人が一人でもいるとがっくしくる。教養豊かなはずの知識人でさえもときどきいる。
“私はそうでない(虐待を受けてない)けどね”とか“そんなひどい虐待信じられない(私は経験ないからわからないけど)”とか。不要なエクスキューズ。
自分と、たとえば虐待経験者に強く線引きをしておきたい人々。そうすることで、自分の中のある種のプライドを死守しようとする。生まれや育ちという自分が選べなかったものが、自分の価値の支えと強く信じている。常に自分のポジションを確認して、安心したい気持ちがある。
何で、そんなに、自分の自信のために、他をおとしめずにはいられない人がいるのか…。
これって、隣国へのヘイト発言をさりげなく日常会話でくりかえず人と、精神構造が似てるかも、って思います。ヘイトデモのような過激な行動はしなくても、なごやかな雑談の中でさらりとヘイト発言する人たちがいます。あなたが日本人なのはたまたまでしょ?と首を傾げたくなる。ヤンヨンヒ「朝鮮大学校物語」に出てくる台詞を言いたくなるよ…ヘイトデモしている人から“おまえはそれでも日本人か”と言われた日本人男性が放つ言葉。“(自分は)あなたとは違う日本人”。
TVである著名な方がタレントに「箸の持ち方きれいですね、育ちがいいんですね」と話していた。私は箸の持ち方が若干変です。それは小学校低学年の頃、左利きなのに箸は右で持つようきつくしつけられたことが影響していると思われ…大人になってから自分で直す努力してこなかったわけでもあるけど。とにかく、私が箸の持ち方で“あなたは育ちが悪い”と断言されたら、なんだか泣きたくなってしまうだろう。
生まれや育ちの悪さを真顔で指摘されたら、きっとひどくうちのめされる。だから、その予防線を、心の中でそっと、自分だけにわかるよう張っている。
他人に対する生まれや育ちへの関心はなくならないけれど。それが、好意的なものとして、その人自身の評価には関わらないものとして、存在してほしいと思う。