巧妙に家族をdisる人がいるね
前回、故郷をdisるな、と書いたけれども、その人が選べなかったことでもその人をつくってきた確かな一部ってことでは、“家族”は最たるものです。
私が長年ファンの田房永子さんが、何かで「家庭問題を話したとき、相手から“自分のうちはそれよりましだ”という発言には、ひどく脱力する」という主旨のことを述べていて…わかるわかる!です。「社会学者の主張を興味深く読んでいたら、自分は経験ないけどという記述にいきあたり読む気が失せた」というエピソードもTwitterで発信されていましたが、そのやな感じ…わかります。そういう人たち、います、何なの?って感じます。その人たちは、その発言が、どれほど切実に悩んできた人を落胆させるか…きっとわかっているかと。それでも、それが失礼なことだと知っていても、そのエクスキューズは絶対しておきたいという心理がある。
それは、家族というものが、自分を決定づける重要なものという認識を強く持っているから。不完全家族であることは自分自身をも究極にみじめにさせると思っているから。自分の家庭はそういう位置にはいないということをはっきりさせておかないと落ち着かない。“自分は健全な家で育った”、あるいは“問題はあるけどそれほどむごい家で育ってない”。それでもって「自分は家庭問題に理解ありますよ」の体を崩さないのだから、たちが悪い。
故郷と同様に、自分で自分の家族を罵ることがあっても、他人はそれを言ってはいけない。
「言葉を失ったあとで」の対談本の中で、上間陽子さんが“どんなひどい虐待を受けていても家族と完全に離れることができない少女たちの心情”を、驚きと同時に考察している。家族は、簡単な言葉では言い表せない繊細なこと。当事者の心は常に揺れている。
1980年頃、親を愛せない好きじゃない、ということを大きな声で言いづらい雰囲気があった。それが、徐々に、発言できるようになり…。それでも、“親を大切に思えないなんて!”と拒否反応をする人はまだ多くいる。そして理解者の顔をして近づく人に、ひどく傷つけられることも。「あなたの家庭はひどい環境だ」と烙印を押されることに、自分自身を根こそぎ否定されるような精神的苦痛を感じてしまう人も多いかと。
ある作家が何かで書いていたこと。その方は、父親からの性虐待をもとに作品を書いて高評価を得た。そのあとに、人から「自分もそういう経験あればよかった」と言われ、苦痛を感じたと。これは、あまりにあまりに無神経なことだけれども。
大人になってからも、人それぞれ思いがけない悩みが発生してくるのが家庭。いつだって、家庭のことは、愚痴は聞きっぱなしでいい、具体的な解決に協力する…。
人の家庭環境のことはdisってはいけないのです。