この本が好き。この本が好きな人も好き
レイモンド・カーヴァ―が好きです。
僕は「ひとりブックカフェ」の架空店主ですが、小説を書くという一面も持っています。
いつだったか、レイモンド・カーヴァ―を読んで、僕も書いてみたいなと思ったのです。
だからけっこう本気で好きなんです。レイモンド・カーヴァ―。
どんなところが好きか、という話は後日に譲ろうと思いますが、今日はそもそも、「この本が好きな人も好き」っていう健気で純粋な感情について、少し思うところをメモしておきたいと思います。
で、前提として僕はレイモンド・カーヴァ―が好きな人のことも好きです。こう思う作品は実はあまり多くない。そういう意味で、とりわけ好きな作家の一人。
レイモンド・カーヴァ―でジン、と来る人は絶対良い人でしょ、って思う。なぜなら僕が良い人だからね、という傲慢さには目を瞑って、意識的に乗り越えて、強く思う。レイモンド・カーヴァ―好きに悪いやつはいない。
「好きな本」しか俎上に上げないのが基本
悲しむべきことに、好きな作家の話をする機会というものは、日常であまりありませんよね。
まあこういうnoteもそうだけど、色々な媒体で好きなものについてはいくらでも語れるから良いのですが、多くは好き、嫌いの次元で語っていないような気もします。
読書が好きな人同士がお互いの投稿を見るわけだから、たとえ嫌いな作品だったとしても嫌いとは言わないのがマナー、じゃないけど、暗黙の了解というか、最近の普通だと思うのです。
面白いかどうかはあまり言及しないまま「どこが面白いか」を語るのが基本のような空気。つまり、「好きな本」を紹介しているに決まっている状態。
肯定が前提で、批判的な投稿をするくらいなら投稿しないというのが岡田斗司夫が言う「ホワイト社会」の、わりと普通の感覚でしょう。
一方で、「結婚相手を選ぶとき、お付き合いする人を選ぶとき、好きなことよりも嫌いなこと、許せないことが一致していた方が良い」というような話もよく聞く気がします。
実感としても、それはなんか分かる。読む本においても、あれはいまいちだったね、というところで意見が一致する友人というものは貴重なものです。
しかし、SNS上で「嫌いな作品」が一致したところで、その関係に益はありません。
そして、SNS、現実の人間関係問わず、益が無いこと(「無駄」とは違う)を無力化する、もしくは忌避する流れ、というのが、ホワイト社会であると僕は理解しています。
嫌いの一致に益はない。
とは言え、どの本も素晴らしい、というのはやっぱり嘘。
本の出来にも、好みにも、明確な差というものがあるのだから、「欠点」や「到達していない部分」を無かったことにしてしまうのは、それはそれで不利益だなと思います。
このジレンマをどうするか。
「この本が好きな人も好き」は「好きの最大値」
タイトルの通り、僕は「この本が好き」に加えてその奥に「この本が好きな人も好きだな」という感情がセットであるような気がしていて、その感情が好きの最大値である気がします。
僕は好きだけど嫌いな人もいるだろうなーっていう作品とか、あの人はこの本好きって思ってくれるかな、っていう風に思える作品って、多分僕の中で少し特殊な位置にある、最高度に好きな作品なのです。
その上で、先ほどのジレンマ。
言い切ってしまうけど、多分もうSNS上で何か作品を、特に本について語るなら「好き」が前提で、「如何に好きか」「どこが面白いか」を語るのが普通であることは揺るがないと思います。
「欠点」や「到達していない部分」は無かったことにするか「狙い」「省略」であるとして肯定するのも必然的な帰結。
その上で、「好き」に説得力を持たせるのであれば、それなりの基準が必要だろうと僕は考えるわけです。
その一つが、というか僕の場合は「この本が好きで、この本が好きな人も好き」というところ。
次か、その次か、分からないけど近日中に、そういう基準を持って「レイモンド・カーヴァ―」を語らせてもらおうと思います。
それでは今日はこの辺で。
さようなら。