「なんかこう」
「なんかこう」
ってよく言いませんか?
ラジオを聴いていると結構ある気がするのが、自分の会話の息継ぎ的に使われる「なんかこう」という言葉。
誰がというわけではなく、いろんな人が使っていると思う。
フリートークで淀みなく、同じ言葉を使わずに喋るのはかなり難しいはずだ。だから話の中に何度「なんかこう」が出てきても、聴き取りづらくはならない。むしろ話の継ぎ目のような役割を果たす部分もあるので、極端に多用されない限りは自然に聞き流せる。
今日もラジオを聴いていて、「なんかこう」が何回か会話に出てきている方がいた。自分はピクッと反応してしまうのだが、何度も出てくるからと言って不快に思うようなものではない。どちらかと言うと、その場で話をまとめながら、組み立てながら、考えて話をしている感じがして丁寧だなとも感じるときがある。言葉自体も尖った印象を与えることは少ないんじゃないだろうか。
ふと自分の「口癖」について考えてみた。いざ考えてみても自分の癖は自分では気付かないことが多いものだが、思い当たるようなものもある。
「なんかこう」のような話の息継ぎだったり、話の頭につくような言葉だと、「結局」という言葉を使っていることが多い気がした。
「結局○○ってことだよね」
「結局は××しなきゃね・・・・・・」
みたいな使い方が主だと思うのだが、正直自分で口にするのが多いことに若干引いている。
なんとなくまとめたい意識が出てしまっているというか、自分の言葉で結論付けたい部分がありそうというか。勿論使い方のいち事例でしかないので、使う人が全てこういう人だとは思わない。
ただ自分の場合は仕事上だったり遊んだりで、会話をするときに「結局」が出てくるのは「まとめ」「結論」みたいな感じがちょっと出ている気がしている。
話の継ぎ目や話の頭ではなく、表現や単語として使うことが多い言葉は「ヤバい」だ。
これは自分に限らずよく使う人が多いと思うが、自分の場合使い方に問題があるのが、ヤバくなくても「ヤバい」と言うこと。
特に、自分が詳しくない話題なのに他の人たちが盛り上がっていると、話を合わせるのみとしてしか機能しない「ヤバい」。相槌のためだけの「ヤバい」。
よく美味しくても綺麗でも、面白くても恐くても、驚いても不安でも使われる「ヤバい万能説」を聞く。自分は(万能説的「ヤバい」は少々気をつけているのに、)この分からないのに使う「ヤバい」が口をついて出る部分が結構あるので、文字通り「ヤバい」のだ。
口癖が人に与える印象って、意外とある。
「なんかこう」ではなく、「なんか」という言葉をよく使う人もいると思う。
字面で見ると真面目な印象すら持ってしまう気がしてしまう。だが、口調も合わせて「なんかぁ・・・・・・」などと言われてしまうことが多いと、自分の感覚としてはあまりいい印象を抱けない。
比べると「こう」という字が付くか付かないかだけで、受け取る印象がまあまあ変わると思うのですごい。
自分が持っている気質や性格の傾向みたいなものが、そのまま「口癖」として多く出やすくなるのだろうか。
逆に、息継ぎ的に使うような言葉ですら、ネガティブな感じを抱かせないようなものを多用していたら、性格的なものも少しずつ変わってくるのだろうか。ポジティブな言葉を使っていたら、気持ちもポジティブになりやすいと言われたりするし・・・・・・。
まさしく口をついて出てくるものなので、「口癖」を変えていくのはなかなか難しい。
でも口癖についてふとした時に考えるだけでも、今の自分のこと、周りのことがちょっとずつ見えてくるヒントになりそうだ。