短編/ 失せ鏡
指輪を無くした。振られた。散々な日だった。
「失せ鏡様、失せ鏡様、失せものを探してください」
お呪いを唱える深夜二時。水に鏡を沈めて覗くと、失せものが映る。そんな都市伝説を試してみようという気になったのは、そんな理由だった。何か失くしたものが見つからないかと思ったのだ。
自然光の電球の明かりの下、白いプラスチックの風呂桶に水を入れ、古いコンパクトを開いたまま夏の生ぬるい水に沈める。
水の中に入れたコンパクトの鏡をそっと覗くと……そこにはしょぼくれた顔をした自分が映っていた。
馬鹿なことをした。
自分に呆れて沈めたコンパクトを取り出そうとすると、ちらりと水面に部屋の光が反射した。その時違和感を覚えた。
何だろうと水底のコンパクトを眺めていると、ぼんやりと目のピントがずれていく。
すると、水面に映っている自分が満面の笑みを浮かべて水面に手を伸ばしていることに気がついた。ぎょっとして後ずさると、派手に水が飛び散った。
恐る恐るもう一度桶を覗き込むと、後には波紋で揺れる水面だけが残されていた。
ちゃぷ、ちゃぷ。
水の音だけが残る。水面が揺れて水溢れかけていた。確かに何かが起こったのだ。
失せものが映るという噂は何だったのだろう。
あの満面の笑みを浮かべた私が失せもの?私が失くしたものが満面の笑みを浮かべた自分?
奇妙な経験に心臓がばくばくと鼓動を打っていたが、それ以外には何も起こらなかった。
それで、終わりだと思っていた。
翌日、鏡を見ると、満面の笑みを浮かべた自分が鏡に手を添えてこちらを見ていた。悲鳴を飲み込んで思わず飛び退いた。
もう一度見直すと鏡には何の変哲もない風景が映っていた。手形をべっとりと残して。
通勤途中、前髪を確認しようとショーウィンドウを見ると、そこにも満面の笑みを浮かべた自分が映ってこちらに手を伸ばしていた。
それから反射面を見かけるたびに自分がどのような顔をしているのか伺うようになった。
そこに笑みがなくとも手形が残っていることが増え、徐々にしっかりと握るような形になっていくその手形は、まるで自分を掴みにきているような気がして不気味だった。
実際のところ途方に暮れていた。
こんなことをどうすれば解決できるのか。
いい歳をした大人が、お呪いをしたら怪奇現象が起こりはじめて怖いから助けてくれ?
情けないにも程がある。
寺や神社に駆け込む?
霊能力者に頼む?
胡散臭い。
神経をすり減らす毎日だった。食事もなかなか喉を通らない。このままでは倒れてしまいそうだった。
そう悩む私の前で、鏡の私は満面の笑みを浮かべてこちらを見続けていた。
そして今日も仕事に向かう。いつもの同僚との挨拶。昼休み。何も変わらない日常。
「よっ、今日も元気元気、機嫌よさそうだね。」
そう同僚に声をかけられた。
今日も、機嫌がいい?こんなにも疲れて嫌気がさしているのに?
唐突に吐き気が襲ってきて、トイレに駆け込んだ。
トイレに並んだ鏡に映る自分が一斉に手をこちらに伸ばして、鏡の面を叩く。
不意に背中を押されたような気がして、つんのめり、思わず鏡の中から伸びている手と手があ合わさった。
鏡の自分と手が触れた瞬間、鏡の自分の満面の笑みが溶け崩れ、やつれた顔が映った。
あのお呪いからここしばらく見なかった、本来の私の顔だ。
自分のやつれている顔を見て安心するのもおかしな話だが、あの訳もわからず満面の笑みを浮かべる自分がいなくなってほっとした。
翌日、気分は疲れていたが仕事は滞りなく終わった。暗くなったオフィスの窓にはやつれた自分が映っている。
ふいに同僚に声をかけられ返事をすると、思わぬ元気な声が出て戸惑った。
飲み会の誘いらしい。疲れていたので断ろうと口を開けると、元気に了承の返事をしていた。
それからも元気であればそうしたであろうことを実行する日々が続いた。
全く同行する返事をするつもりはなかったのに、口から出てくるのは愛想のいい返事ばかり。
鏡の中の自分はますますやつれていき、目も落ち窪んでいる。今度は逆にそんな鏡の中の自分を見るのが怖くなってきた。
もう一度あのお呪いをやったら、この違和感が無くなるんじゃないかと思い、深夜二時、また桶に水を張ってお呪いをとなえた。
「失せ鏡様、失せ鏡様、失せものを探してください」
言い終わった後、恐る恐る桶を覗き込む。
ざばぁ。
痩せ細った両手が水面から桶の深さより長い、ありえない長さで伸びて私の首を絞めてきた。
そしてその腕の間からぶくぶくと泡を吐きながらブツブツと「私を返せ」と呟く『私』の顔が現れ、そのまま呼吸ができず……。
私は病院で目が覚めた。過労で倒れていたらしい。
悪い夢でも見たのかと思っていたが、医者に「首を絞められた跡がありましたが心当たりは?」と尋ねられた。
思わず息を呑んだが、仕方がないので夢で首を絞められたと答えた。
医者は訝しげな顔をしたが「そうですか」とそれ以上のことを聞いてこなかった。
どこからが夢で、どこからが現実だったのか。
恐る恐る大部屋の鏡を覗き込みに行くと、そこにはただやつれた自分が映っていた。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?