(仮題)北園克衛「圖形説」の周辺備忘録..vol.3
前回「(仮題)北園克衛「圖形説」の周辺備忘録..vol.2」で紹介した『奈良大学紀要第34号』に掲載された奈良大学教授浅田隆氏(当時、現在は名誉教授です。以下同文)の論文「奈良大学図書館『北村信昭文庫』北園克衛初期詩篇及び初期未発表詩稿等」(以下「論文」という。)において公表された北園克衛の未発表詩稿『記號学派』に基づき活版印刷として組版を作り印刷した詩「曲乗り練習」の画像を掲載します。
この詩について論文で浅田隆教授は、「総題「記號学派」の中の「曲乗り練習」は『白のアルバム』の51頁の「空中運動」の、また「水中魔術」は53頁の「宇宙論」の原型的要素が感じられる。」と論じています。「曲乗り練習」と「空中運動」の違いは、「曲乗り練習」からの見た場合、「旗」が5文字並んでいること、「旗」文字の下のブレーズの尖端と「立體人形」の文字を囲うブレーズの上の部分の尖端を結ぶ線が実線で長く結ばれていること、「立體人形」の文字を囲うブレーズの下の部分がないこと、またそれを集約するようにブレーズの尖端の下に置かれている数字「0」がないこと、この大きく4点の違いがあるものの、一目見れば詩を構成する要素となる文字や記号(ブレーズ)やその互いの位置関係あまり変わらないと言えます。
また「曲乗り練習」は、『白のアルバム』(昭和4年初版本)24頁の「水中運動」とも「旗」が「眞空球」に変わり、「人形」が「魚」に変わったものの構成要素は似ており、むしろ下のブレーズと数字の「0」の使い方は「水中運動」のほうが類似を成しています。その「水中運動」の画像をします。
次に、同じ奈良大学教授浅田隆氏の論文において公表された北園克衛の未発表詩稿『記號学派』に基づき活版印刷として組版を作り印刷した詩「水中魔術學者」の画像を掲載します。
この詩については、浅田教授は論文で先に書いたように「「水中魔術」は53頁の「宇宙論」の原型的要素が感じられる。」と述べています。比較のためにその『白のアルバム』(昭和4年初版本)に収められている「宇宙論」の画像を掲載します。
詩「宇宙論」と「水中魔術學者」では、「魚形水雷」という言葉が共通して使われており、空あるいは海面から魚の形をした水雷が落ちてゆく様が印象として残る詩となっています。
以上論文の詩稿に基づき活字化した「記號学派」の2篇の詩と『白のアルバム』の圖形説の章に収められている2篇の詩を並べて私が感じた類似点を述べてきました。
この二つの詩群の間で感じられる一番大きな違いは、縦の長さではないかと思います。どうして縦の長さの違いが生じたのか。その理由は、詩稿「記號学派」が、新聞1段の段組に印刷されることを前提に書かれているからであると思われます。また、この詩稿「記號学派」は大和日報の文芸欄に掲載するために橋本健吉(北園克衛)が書いたものですが、新聞には掲載されなかったようだと浅田隆教授は『彷書月刊』2002年12月号掲載の論文「北園克衛と『大和日報』」で述べています。どうして新聞に活字となって掲載されなかったかにつては、同論文で「記號学派」の詩稿を受け取った大和日報の記者である北村信昭氏が、「DER STURMの話」という詩稿について回想した次の文章、「大正15年に大和日報に寄せられた詩稿で、これは欧文が多く、当時の地方紙として印刷事情が許さず残稿となったものである」を紹介し、同様の事情で掲載が見合わされたかもしれないと述べています。
8ポ1行15文字の段組の中に、違う活字の大きさを組むことや、その中に罫線を差し込み、さらには斜めに伸ばしたりすることは時間を掛けずに素早く記事を印刷し、読者に届ける使命を帯びた新聞では容易にできなかったことは想像に難くありません。
ここからはさらに推論になります。
論文で浅田隆教授は、原稿が3枚ある詩稿の3枚目の欄外に鉛筆で「15.5月」と書かれていると述べております。この原稿用紙の欄外へ記載された年月が詩稿の所有者でった北村信昭氏が橋本健吉(北園克衛)から詩稿を受け取った時期であるとすると、大正15年(1926年)5月には圖形説の原型とも言える「記號学派」と題された5篇の詩が書かれていたことになります。
これは上田敏雄が図形的な表現を盛り込んだ詩「芸術歴史と空間作用」を発表した昭和2年(1927年)7月発行の『文藝耽美』第2年7月号よりも前に図形的な表現を盛り込んだ表現を北園克衛は考えていたということになります。
北園克衛は、評論集『黄色い楕円』(1953年、宝文館)に収められている「詩における私の実験」という文章の中で、圖形説の自己評価と生まれた経緯について書いています。それによれば、北園克衛は1927年に、
〈新しく発見した詩形でずいぶんとたくさん、ほとんど六ヶ月間にわたって書き続け〉〈言葉が持っている一般的な内容や必然性を無視して、言わば言葉を色や線や点のシンボルとして使用した〉〈それらの作品は1929年に〉〈私の最初の詩集『白のアルバム』に「記号説」として、一部加えられている〉〈「記号説」という一群の作品を書いてまもなく、私は「図形説」というヘッドタイトルで「記号説」に用いたボキャブラリイで、更に造形的な作品を書いた〉
ということになります。私が北園克衛の文章を勝手に取り出して〈 〉内で引用して、切り貼りして再構成した文章なので、文章が持つ本来の意図が歪んでいることがあるかと思いますが、お許しいただきたいと思います。
この文章を読むと、「図形説」は「記号説」ので使われた言葉で書かれたということになりますが、前述の詩稿「記號学派」と「図形説」の詩の形と単語の類似点をみれば、北園克衛の約25年後の回想はどこか不思議な気がしてきます。
さらに上記文章「詩における私の実験」では「圖形説」について、「確かに一つの試みとして興味のあるものであるが、今日の自分としては少し脱線したものとして、あまり感心できないし、上田敏雄も書いているというわけで、私の独創的な作品とも言えない。」と自己評価となる態度を示しています。
上田敏雄は、昭和2年(1927年)7月に発行された『文藝耽美』第2年7月号に、北園克衛が言うところの〈言葉が持っている一般的な内容や必然性を無視して、言わば言葉を色や線や点のシンボルとして使用した〉作品「魔術歴史と空間作用」を発表します。その翌月に発行された『文藝耽美』第2年8月号では北園克衛が「上層記號建築」及び他10篇の、圖形説の形に近い作品数点含む詩を発表します。ここで北園克衛はブレーズや小さなポイントの数字、罫線を使っています。特に、「曲乗練習」、「學術動物」は、約1年前に書かれた詩稿「記號学派」にその表題がほぼ同じのものがあり、詩の形や使われている単語も然程変わりはないものです。この雑誌の前後となる発行順の後先は、新ししく詩形を発見するために他の詩人と切磋琢磨する中では大きな意味を持っていたではないかと推察します。当時は、現代のワープロやSNSによる発信と違って、原稿から公表を前提とした活字になるためにはかなりの覚悟と労力が必要だったと思います。
一方、北園克衛が自ら〈新しく発見した詩形〉と述べる「記号説」の元となった詩「白色詩集」は昭和2年(1927年)5月発行の『文藝耽美』第2年5月号で活字となり発表されています。
「圖形説」の醍醐味は、「詩」を「図形」として提示したことではないかと思います。そこの中には、「詩」とはなにか、「図形」とはなにか、といった様々な解釈が存在することから、今日ではあまり魅力のある試みではないと思うのですが、活版印刷が主たる出版のための印刷手段である時代において、活版印刷は罫線による絵画表現という分野において既に十分な隆盛を持っていたし、詩の表現においては言葉の表現の増幅作用として大小の活字を使うことや約物を多用することなどすでに多く試みられていました。しかし、単なる図形として詩を提示したことは、頭では容易には感じ得なかった意識の反転の世界を提示した点で、また同じ意味で金属の組み合わせから抜け出せない限界から無限の可能性を反転の技を経て垣間見せてくれた点で、示唆に富む行為だったのではないかと思います。まさに図と地の関係を示しています。
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