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写真の正体とは何か
現在「写真」という言葉は、フィルムでもデジタルでも同等に使われている。
しかし、僕たちはその二つを同じものとして認識していいのだろうか?
フィルムで撮影した写真は、それがものとして成立している感覚がある。
一方、デジタルで撮影した写真は、ただのピクセルの集合体に過ぎないように感じてしまう時がある。
この違和感は一体、どこからくるのだろうか?そして写真の本質はどこにあるのだろうか?
今回はフィルムとデジタルの違いから、写真とは何か考えていこうと思う。
フィルム写真とデジタル写真の違いについて
フィルムとデジタルの差異は単なる技術的な側面だけではない。
そこには「写真が存在する」ということの意味という本質的な部分もあると考えている。
フィルム写真は、化学反応によってそこにあった光を物理的に定着させたものだ。露光されたフィルムは光を焼き付け、現像され視覚化される。そうすることで撮影された「痕跡」が物質として刻み込まれるのだ。
そして、その化学反応は光の強弱によって起こっている。この変化は連続的であり、どこまで拡大しても画素のような単位は存在しない。要はフィルムの一コマは連続した光のグラデーションとして成立していて、フィルム自体が物理的に世界と連続した存在であるということでもあると考える。
一方デジタル写真は光を直接定着させるのではなく、センサーで光をデータとして読み込み保存する。数値として保存されたそれは、ピクセルごとにRGBの値があり、明確に数えることが可能だ。そしてその集合体として写真が成り立っている。
要はデジタル写真は離散的なデータで成り立っている物であり、0か1である。
この時点で、デジタルはフィルムのように連続的に焼き付けられた痕跡的存在とはかけ離れた存在であると言えるだろう。
エネルギーに依存したそれを写真と呼べるのか
ここで、根本的な疑問が生まれる。
「エネルギーなしでは見られないものを果たして写真と呼べるのか?」
フィルム写真は光があればそのまま見ることができる。たとえそれが何百年後であろうと、現像済みのフィルムや印画紙に焼かれた写真は存在しうるだろう。これは写真が独立したものとして存在しているからだ。
一方でデジタル写真はエネルギーを供給し、モニターやプロジェクターといった媒体を噛まなければみることはできない。もし、サーバーが消えたら?ストレージが破損したら?今の形式が時代遅れなものとなったら?デジタル化における脆弱性が顕になる日はそう遠くないだろう。莫大な量のデジタルの記録は容易に消失する。
つまりフィルムが生の「光の痕跡」として物理的に存在するのに対し、デジタル写真は「光のデータ」として一時的に見れているに過ぎず、あまりにも記録として不安定で、脆弱なものであると考えられるだろう。
「印刷をすれば物質化できているだろ」と言う考えも思い浮かぶが、結局その元となるデータは数値化された何かであり、物質化されたように見えて、一度データ化されたそれを復元しているに過ぎない。
また、このデータで復元された何かも写真とするならば、3Dレンダリングされた何かも、AIで生成された何かも、同列の写真として扱われてしまう。
もはや現代における写真は、光の記録ではなく「視覚的なデータ」へと変容している。
この定義で写真が進歩していくのならば、いずれは人の記憶やイメージすらも写真と言える日が来てしまうのではないだろうか。
僕なりの結論
デジタル技術の進歩によって、写真の概念は徐々に変化しているのだろう。しかし、フィルムとデジタルの本質的な違いから考えると、「写真の正体」そのものを見失っているのかもしれない。
今もなおAIの進歩やデジタル化が、写真の新たな形態を作り出し、それと同時に写真の実存性も失いつつある。だからこそ今一度このパラドックスを注視し、「写真とは何か」を考え直すことが重要になってくるのではないだろうか。
ここまで読んでくださりありがとうございます!
↓前回までの物も一緒に読んでくれたら嬉しいです。
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