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古典擅釈(3) 本心を語るということ『伊勢物語』③

 現在の私たちは、愛という言葉を聞くと、美しいイメージでとらえることがほとんどです。
 ただ、伝統的には愛という語は「愛欲」「愛執」「愛染」「愛着」など、強い執着心や独占欲の意味を帯びた語として用いられてきました。
 恋愛、夫婦愛、親子愛、兄弟愛、師弟愛……、確かにそれらの語にも執着心や独占欲のニュアンスがあります。
 愛といっても、動物的倒錯的なレベルから、無我の愛や慈悲のレベルまで、さまざまです。
 執着心や独占欲は少ない方がいいから、私たちは自分でもとらえがたいその愛をできるだけ浄化していくしかないのでしょう。

 愛の遍歴を重ねてきた業平にも分かったのでしょう。
 どんなに誠実に愛を歌ったつもりでも、必ず偽りが忍び込んでいます。
 愛の本当のところなど、分かりはしない。

 愛に限りません。
 私たちの思いのほとんどに、私たち自身にとってもよくわからない部分が含まれているのではないでしょうか。
 最も明確な感情である怒りでさえ、時に自分はなぜそんなに怒っているのか分からなくなるようなことがあります。
 自分でさえよく分からぬ気持ちが、他人に理解できるはずがありません。

 「思ふこと…」の歌も、そのような意味ではないでしょうか。

――自分にさえとらえ難い「思い」が、自分と同じでない他人に分かってもらえるはずがない。
 だから、得体の知れぬ情念を自分の本心だと思い込んで、軽々しく吐露するのはやめよう。
 それは、絶望とか人間不信とかいうのではなくて、人の心とはそういうものだからだ。
 人は心をさらけ出し、語り合ったりすることによって、初めてお互いに理解できたりもすることもある。
 でも、それは語り得ぬ部分に対するお互いの尊重や暗黙の了解があるからだ。
 簡単に理解してもらえたと思うのは、その相手の好意に対する甘えに過ぎない。
 安易に人を理解したとか人に理解されたとか思うから、簡単に人に欺かれたり、人に欺かれたと思いこんだりするのだろう。――

 思いを完璧に伝えることなどできません。
 思いが通じたとしたら、それは語り得ぬ部分を相手がそのまま許容しようという善意で蔽い尽くしたからです。
 その意味で、人は孤独です。
 しかし、それは悲しげに語ることではありません。
 「独りぼっちで寂しい」と感じるのは、自分のことしか視野に入っていないからかもしれません。
 人は、人との関係性の中で孤独なのです。
 業平も、「自分は理解し合おうという善意に囲まれた孤独者である」と言い聞かせたかったのでしょう。
                              〈了〉

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