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謎解き『黒死館殺人事件』(3) すべてを“合理的”に解き明かす

〈目次〉
13   黙示図は誰が描いたのか
14   ダンネベルグ殺人事件
15   裏庭に残された足跡の謎
16   易介殺人事件
17   津多子はなぜ古代時計室で、昏睡状態で発見されたのか
18   クリヴォフ殺人事件
19   レヴェズ殺人事件
20   伸子殺人事件
21   推理小説『黒死館殺人事件』の価値
22   終わりに

 今回は、事件のからくりと真犯人の特定、及び本作品の価値についてお話しします。
 読めばおわかりでしょうが、本作品に描かれた犯罪の手口は現実には再現不可能なものばかりです。
 ですから、荒唐無稽な手口については原則として言及しません。
 神秘的な道具や魔術についてもすべて「ノイズ」、または捜査を攪乱するための手段として解釈します。
 具体的には、テレーズ人形が動いたかどうか、倍音がどういう影響を与えたか、裏庭の特殊な靴跡はどんな方法で付けることができたか、クリヴォフはどのように狙撃されたか、などです。
 誰が、どういう動機で、どのような動きをして罪を犯したかに焦点を当て、お話しします。

13 黙示図は誰が描いたのか


 犯罪計画の実行のため、押鐘夫妻と鎮子伸子親子、真斎という協力関係が成立しました。
 しかし、協力できないところもあります。
 それは遺産の主要な行先です。
 夫妻にとって、遺産は旗太郎が相続しなければ無意味です。
 親子にとっては、遺産は伸子が相続するのが当然です。

 両者の最終目標は異なります。
 金庫の中に二種類の遺言書があり、そのうち乾板に映された遺言書が“本物”であるということは、両者とも知っていたことでしょう。
 乾板の遺言書を実行すること、そして四人の外国人をなきものにすることで両者は合意しています。
 夫妻にしても、四人を排除するためには、ぜひとも親子の協力が必要です。
 なぜなら、今では津多子も余所者に過ぎないからです。
 親子にとっても、夫妻の協力が絶対です。
 金庫を開けることができるのは童吉だけだからです。
 その点では、夫妻のほうが優位に立っています。
 こうして計画は動き始めました。
 両者が腹の底で考えていたことは何でしょう。
 夫妻にとっては旗太郎の「均分率」が重要であり、伸子の取り分は少ない方がよい。
 はっきり言えば、伸子の取り分はない方がよい。
 そのための最も良い方法は何でしょう。
 それは、紙の遺言書を“本物”にすればいいのです。
 その上で四人を消し去れば、遺産はすべて旗太郎のものです。
 神意審問会が開かれた晩、何者かが金庫から乾板の遺言書を取り出し、張出窓から投げ捨てました。
 津多子の仕業でしょう。
 津多子は童吉から金庫の鍵と文字盤の符帳とを受け取り、そうしたのです。
 乾板の破壊を急いだのは、捜査が始まればいつ金庫を開くよう命じられるか分からないからです。
 親子も夫妻とは別の計画を立てていました。
 それが黙示図です。

 算哲が描き〈p144〉、未整理図書の底に埋もれていたのを昨年の暮れに鎮子が発見したといいます〈p152〉。
 昨年の暮れとは、津多子が黒死館を訪れた時と一致します。
 しかし、図が算哲の書いたものなら、遺言書の内容と矛盾します。
 図の六人にも、算哲は財産を残そうとしていたはずだからです。
 実は、ここに算哲の詐術があったのではないでしょうか。
 前回の考察で私は、四人の外国人が実験を通して算哲の説の正しさを証明した、算哲はそのことに感謝して四人を養子にし財産も残した、と述べました。
 しかし、算哲の本心は別のところにあったと思われます。
 例の実験ですが、ほんとうに算哲の正しさを証明したのでしょうか。
 実験はある頭蓋形体を持った犯罪者の素質は遺伝するかどうかを調べるものですが、それは四人が罪を犯さなければそれで証明されるものではなく、彼らが犯罪者の傾向を示さないこともその要件であったのではないでしょうか。
 四人の言動について見てみましょう。
 ダンネベルグは神経病の治療剤として砒石を常用していました。
 伸子と口論したり神意審問会を開いたりしたところからは、攻撃的かつ狂信的で、猜疑心の強い性格が見受けられます。
 クリヴォフは(実験対象としては不適格でしたが)、伸子によると殺されても悲しむような人は一人もいない〈p380〉ほどの人間でした。
 レヴェズにも法水は狂暴さや狂的な憑着を感じています〈p420〉し、不審な行動もいくつか見受けられます。
 セレナは真っ当な人間に見えますが、伸子が薬物中毒症状を示した時〈p452〉、その毒ピロカルピンはセレナが温室にあるヤポランジイの葉を盗み出して、その葉から抽出した可能性があります〈p454,p456〉。
 以上のことがあったからといって、四人を犯罪者扱いすることはできません。
 ただ、“学術的”には「犯罪者の傾向を示した」と判定していたかもしれません。
 とすれば、算哲も自身の説の誤りを自覚していたわけであり、四人に対しては感謝どころか、憎悪を感じていたかもしれないのです。
 つまり、本心では算哲も四人を排除しようとしていたということです。
 算哲は遺言書の中では四人に財産を分与すると言いながら、実は彼らを無き者にしようとしていたのではないか、というのが私の推理です。
 だから、算哲は遺言書を自分のシの一年後に開封せよと指示した、つまり一年以内に四人を始末し、遺産を伸子らだけのものにせよ、と伝えたのです。
 誰に…。
 鎮子と真斎に、です。
 ただ、算哲はそのことを鎮子や真斎に指示しておけばいいだけで、黙示図に残す必要はありません。
 だから、私は鎮子が黙示図を偽造したと思っています。
 四人に易介と旗太郎を加えて…。
 このあたりの推理は、ちょっと強引です。
 算哲の気持ちは憶測するしかありませんので。

《㊟》旗太郎がいつ当主になったのかわかりませんが、算哲がそうしたのなら、彼に旗太郎を排除する意志はなかったでしょう。易介もその殺害までは望まなかったと思われます。鎮子が黙示図を偽造したのは、六人の死が算哲の意志であることを示そうとしたからです。今後生じる奇怪な殺人はすべて算哲が生前に仕組んだものになります。以上は私の「憶測」です。

 続けます。
 黙示図は伸子一人に遺産を相続させるため、鎮子が捏造しました。
 鎮子側の計画も始動したということです。
 両者の協力計画は動き出すや否や、即座に分裂してしまいました。
 鎮子側は乾板が破壊されたと分かった時点で夫妻の企みに気づいたでしょうし、夫妻側も黙示図の存在を知った時には鎮子側の本音を察知したことでしょう。
 しかし、計画が始まった以上、両者は対立するわけにはいきません。
 法水らに知られれば、それは共倒れを意味します。
 だから、鎮子は津多子が古代時計室にいることを知っていながら「昨日早朝に帰った」〈p134〉と嘘をついたり、「津多子様は絶対に犯人ではございません」〈p387〉と擁護したりしたのです。
 さて、これから黒死館で起きた五件の事件と二件の奇妙な出来事について、推理します。
 五件はいずれも自殺ではなく他殺です。

14 ダンネベルグ殺人事件


 最初の被害者はダンネベルグです。
 彼女は神意審問会で卒倒した後、鎮子と易介に「自分を明けずの間に運んでくれ」と言いました〈p136〉。
 そこは、三度の変死事件が起こった部屋です。
 彼女は果物皿にあったオレンジを食べ、その中に仕込まれていた青酸カリによって中毒死しました。
 果物皿を運んできたのは易介ですが、オレンジに青酸カリを仕込んだのはおそらく真斎です。
 というのは、この時、ダンネベルグがオレンジを自ら選ぶ確率は非常に低いとされたからです。
 彼女は同じ皿の上にあった梨の方が好きだったのに、なぜオレンジを選んだか〈p115〉。
 それは一種の錯覚によって引き起こされたと解明されますが〈p542〉、そんな細工が可能なのは真斎(ディグスビイ)しかいないと思われます。

 ダンネベルグのこめかみに印された創紋は誰が、何のためにつけたのでしょう。
創の形は降矢木家の紋章の一部の橄欖冠です〈p112〉。

 ダンネベルグが亡くなった晩、鎮子と易介が徹夜で彼女に付き添いました〈p115〉。
 部屋は施錠されたので、二人の内のどちらかがダンネベルグに創紋を付けたと考えてよいでしょう。
 私は鎮子だと考えています。
 事件の二時間前、ダンネベルグが伸子と激しく争論した際、彼女は伸子のことを「賤民」「寄生木」などと罵ったといいます〈p157,p416〉。
 降矢木家の真の当主であることを自認する伸子やその母鎮子にとって、これは許しがたい罵声であったでしょう。
 鎮子は娘伸子こそが降矢木家の正統であることをダンネベルグに知らしめるために、家の紋章を彼女のこめかみに焼き付けたのです。
 鎮子は四人を「たかが実験用の小動物にすぎない」と認識していました〈p502〉。
 つまり、鎮子はダンネベルグに降矢木家の焼印を押すことによって、彼女が自分たちの家畜に過ぎないことを表したのです。
 鎮子はもちろんダンネベルグがこの晩、薬殺されることを承知しており、「焼印」するための道具を予め準備していたのでしょう。

 ダンネベルグが死後、青白い光を発していた〈p110〉のはなぜでしょう。
 法水は駆虫剤サントニンが腎臓に影響を及ぼしたためと説明しますが〈p543〉、ラジウム化合物原因説〈p111〉の方がまだしも真実らしく見えます。
 津多子は事件の直前、ちょうど神意審問会が開かれていた最中に、秘密裏に薬物室を訪れました〈p449~〉。
 津多子によると、夫の病院経営を救うためこの部屋からラジウムを盗み出し、童吉に持ち帰らせましたが、その犯行を隠蔽するために津多子は古代時計室に隠れていた、というのです。
 このラジウムを用いてダンネベルグの死体を発光させたのでしょう。
 その目的は、犯罪隠蔽と捜査攪乱です。
 かつてのユダヤには、周囲に蝋燭を立てて死体を照明するとその犯罪は永久に発覚しないという迷信がありました〈p330〉。
 とすれば、ユダヤ人が仕組んだことになります。
 真斎(ディグスビイ)はユダヤ人であり〈p423〉、ダンネベルグもユダヤ人です〈p111,p502〉。
 真斎、津多子、鎮子、易介が協力して、小細工を弄したのでしょう。
 なお、真斎はこの計画において、裏方に徹しています。

 「夫人が断末魔にテレーズと書いたメモが、寝台の下に落ちていた」〈p120〉のも、誰かが事前に用意しておいたものです。
 ダンネベルグの筆跡だと証言したのは伸子ですから、その真実性に疑いが残ります。
 また、ダンネベルグが入る前に誰かが明けずの間に潜入した痕跡も確認されています〈p513〉。
 事前に部屋にいろいろな仕掛けを施すことも可能でした。
 なお、真斎は一連の犯罪において裏方に徹しており、原則として自ら手を下すことはありません。

15 裏庭に残された足跡の謎


 神意審問会が開かれた時、易介は裏玄関の石畳の上で二階の張出窓に真っ黒な人影が動くのを見ました〈p155〉。
 その時、地上に何やら落とした音がしたので、彼が気になってそれを見に行くと、そこにはガラスの破片が一面に散乱していました。
 現場は翌日の午後、法水らによって調査されました。
 調査結果は図に示されますが〈p240〉、実はこの図にはいくつかの不審な点があります。

 図には乾板の破片があった場所(A)の左側に四本、右側に三本の足跡(①~⑦)があります。
 一つ目の不審は、「オヴァシューズ」の跡(⑥)が一本しかありませんが、本文にはAとの間を往復していた〈p239〉とあるから、これは図の誤りです。
 一点鎖線も二本なければなりません。
 二つ目の不審は、①の直線が何の足跡であるのか、わからない点です。
 三つ目の不審は、園芸靴の往路が四本ある点です。
 ただ、矢印を見れば、このうちの二本は復路であることがわかります。
 破線も園芸靴の復路です。
 四つ目の不審は、足跡の数が奇数であることです。
 Aに向けて往復するのですから、足跡の数は偶数でなければなりません。
 これは図のミスではなく、何らかのトリックが使われたと私は考えています。
 もう一つ不審があるとすれば、法水らが以上の点について何ら疑問を感じていないところです。
 探偵も検事も捜査局長もこれでいいのでしょうか。
 図の不審点ですが、私は、①を易介の復路、⑤をオヴァシューズの往路、⑦を園芸靴の復路と考えました。
そのことについて述べる前に、足跡の主な特徴をまとめておきます〈p239~p241,p458~p461〉。

 なお、靴跡が印されたのは雨が降り止んだ11時半以降のものとされていますが〈p241〉、易介は9時代と11時45分頃にA地点に行っており、二回の足跡がともに残ったものと考えます。
 以下は私の推理です。
 9時代の易介の足跡は②が往路、③が復路です。
 何かが落ちた音がしたので、現場を確認しました。
 易介は明けずの間に戻って、自分の見たことを鎮子に報告します。
 鎮子はもう一度、易介に現場を見に行かせました。
 それが11時45分頃のことです。
 この時、何かを感じた鎮子は、伸子にも現場に行くよう指示しました。
 後になって疑われないようにするため、伸子はレヴェズのオヴァシューズを履いて出ていきます。
 この時の易介の往路が④、復路が⑦、伸子の往路が⑤、復路が⑥です。
 易介はAでガラス片を回収した後、伸子と共に本館の右側の出入扉に戻ります。(園芸靴は造園倉庫に戻した。)
 ガラス片は鎮子の手に渡り、鎮子はそれが遺言書の乾板であることに気づきました。
 なお、この時二人が拾い残したガラス片が法水の手に渡りました。
 ところで、図中に枯芝の焼き跡があります〈p238〉。
 作品中で何度か話題になりますが、結局うやむやのままで終わってしまいます。
 これは、鎮子に指示され、易介が二度目に現場へ向かった際、証拠を隠滅するため、犯行に使用した何かをその場で燃やしたのではないでしょうか。
 そしてガラス片を拾って、伸子と明けずの間に戻りました。
 足跡は枯芝の焼き跡を跨ぎ越えた〈p240〉のではなく、ただ消えてしまっただけです。
 辺りはもう薄暗くなっていたため、証拠品の燃えカスは発見されなかったようです。
 捜査のほとんどなかった翌日、燃えカスなどは綺麗に撤去されたことでしょう。

 残るは足跡①の説明ですが、その前に易介と犯罪計画の関係についてお話します。
 鎮子は犯罪計画を推し進めるに当たって、それなりの待遇、報酬を易介に保証し、彼を仲間に引き入れたことでしょう。
 鎮子は最終的には易介をなき者としようと考えていますので(黙示図)、計画の詳細を彼に教えたわけではありません。
 易介はその誘いに飛びつきました。
 神意審問会が始まった時には、彼も計画が動き出したことを理解していたことでしょう。
 ただ、津多子が仲間であることや乾板の遺言書の存在など、重要情報は聞かされていませんでした。
 ですから、易介は人影を見てもガラス片を見ても、それが何だか分かりません。
 鎮子はガラス片を見て、津多子が乾板の遺言書を壊したことにすぐに気づいたでしょう。
 津多子への信頼は崩れ去り、鎮子は自分たちが決定的に不利な立場に立たされたことを知ります。
 そこで、乾板の遺言書には易介への財産分与が書かれていたことなどを易介に打ち明けたのではないでしょうか。
 易介はこの時、きっと曰く言い難い感情、――算哲への恨み、犯罪への緊張、遺言書の話を聞いた興奮などに襲われたことでしょう。
 だから、ダンネベルグ事件の夜、彼は明けずの間から坑道を通って算哲の墓に赴き、遺骸の胸骨に乾板で「父よ、吾も人の子なり」と刻んだのです。

《㊟》後に法水が坑道を調査した時、犯人はダンネベルグの室から坑道に入り、棺龕の蓋を開けて裏庭の地上に出た〈p513〉と考えました。このダンネベルグ夫人の室とは明けずの間のことだと思われます。「あの夜ダンネベルグ夫人の室に侵入した人物」〈p514〉という記述がありますが、そのような事実はないからです。
《㊟》「父よ、吾も汝が子なり」と刻まず、「吾も人の子なり」と刻んだところに障碍者であった易介の深い悲しみが表れているのかもしれません。

 坑道には「証明しようのないスリッパの跡」〈p233〉が付いていました。
 易介はスリッパを履いて坑道に入ったのでしょう。
 その帰路、裏庭に赴き、先ほど火を点けた跡を確認したのでしょうが、それが①の足跡です。

 なお、古賀庄十郎によれば、翌日易介の顔色は「死人色」をしていたと言います〈p197〉。
 易介は真先に嫌疑者にされたからだと言いますが、前年、誤解して算哲を殺害してしまったことへの後悔もあったでしょう。
 乾板の遺言書の内容を知っていたなら、易介も算哲を殺すことはなかったのです。
 そこに算哲・易介親子の悲劇があったと私は思っています。

16 易介殺人事件


 その易介が次に殺害されました。
 彼は甲冑を着せられ、宙吊りになって殺されていました〈p190〉。
 咽喉には二本の切傷がありましたが、鎧通しと呼ばれる短刀で付けられたようです。
 易介殺害の犯人として疑われたのは伸子です。
 犯行時刻は1月28日午後2時頃ですが、その時易介を殺害するチャンスがあったのは伸子だけだと支倉検事や熊城捜査局長は考えました〈p220〉。
 しかし、伸子は鐘鳴器の前で、鎧通しを握った状態で失神しているところを発見されています。
 犯人が犯行後もずっと凶器を手にしたままでいるでしょうか。
 伸子は犯人に失神させられ、凶器を持たされたと考えたほうが自然です。
 後に伸子自身その時、鎧通しを握っていたことを認めます〈p273〉。
 しかしこれは自分だけアリバイがないことを嘆き、自暴自棄になった時の伸子が言ったことです〈p274〉。
 伸子を易介殺しの犯人に陥れようとしたのは、もちろん津多子です。
 押鐘夫妻と鎮子伸子親子とは今回の計画において協力しましたが、夫妻にとっては、伸子は邪魔者の一人に過ぎません。
 では、易介を実際に殺害したのは誰でしょうか。
 津多子は前日(1/27)の朝に黒死館を離れている建前ですし(実際は古代時計室に潜んでいた)、刑事が大勢屋敷を調べている中、軽々しく姿を現すわけにはいきません。
 易介を殺害したのは、この人物を措いて他はありません。
 古賀庄十郎です。

 庄十郎は易介と同年輩の召使いです〈p197〉。
 給仕長の易介の下で働いていたことでしょう。
 彼は尋問に、当日午前11時半頃には死人顔をした易介と出会い、午後1時過ぎには吊具足の中で高熱を発した易介を見つけ、午後2時には同じ具足の中で息絶え絶えの易介を認め、その10分後には易介の呼吸も途絶えていた、と答えていますえています〈p197~〉。
 庄十郎は法水に問われるまでこれらの事実を自ら申し出なかったし、驚くべきなのは、法水らもそのことを不審に思わなかったことです、一番に疑うべき人物であるにもかかわらず。

《注》庄十郎は高熱を発し息絶え絶えの易介を放置しています。易介に憎悪や敵意を感じていていなければ、こんな仕打ちをすることはないでしょう。法水が「易介には甲冑の知識があるのだろうか」と問うた時、庄十郎は「ハイ、手入れは全部この男がやって居りまして、時折具足の知識を自慢気に振り廻す事が御座いますので」と答えています〈p199〉。庄十郎が易介をなぜ具足に閉じ込め殺害したのか、その理由がこの発言に窺えます。

 津多子は多額の報酬と、易介亡き後の給仕長の地位を約束し、庄十郎を籠絡したのでしょう。
 もちろん、鎮子側には内密にして。
 だから、庄十郎は易介殺害後、疑惑が伸子に向かうように凶器を伸子に握らせたのです。
 後に伸子は、鐘鳴器を演奏し朦朧となっていた時、突然顔の右側に打ち当たって来たものがあり、気を失ったと言いましたが〈p378〉、庄十郎に顔を殴られたのでしょう。

17 津多子はなぜ古代時計室で、昏睡状態で発見されたのか


 押鐘夫妻は犯行計画を綿密に立てていました。
 津多子は事件の一か月前から黒死館に滞在し、いよいよ計画が動き出す当日、邸を離れた風を装いました。
 しかし、津多子は実際には古代時計室に潜み、事件を動かそうとしていました。
 当日の午後6時に童吉から電話があったのも、事件前の最終確認でしょう。
 最初の計画、ダンネベルグ殺害はうまくいきました。
 しかし、誤算もありました。
 鎮子や伸子が神意審問会に参加している間に、津多子は金庫から乾板を取り出し、張出窓から投げ捨てましたが、その姿を易介に見られてしまったのです。
 易介は張出窓の人影のこと、及び辺り一面に散乱するガラス片のことを鎮子に報告しています〈p155〉。
 鎮子には人影が誰であるかがわかったはずです。
 鎮子は津多子の裏切りに気づきました。
 津多子も鎮子に気取られたことを知ったでしょう。
 津多子は計画の進行を早めねばならないと考え、庄十郎に命じて易介を殺害させました。
 易介の口を封じること、易介が鎮子側につくのを防ぐこと、伸子を陥れることが目的です。
 まさに一石三鳥です。

 ところで、乾板はなぜ神意審問会が開かれた隣の部屋の張出縁から捨てられたのでしょう。
 もっと別の場所で捨てた方が安全なはずです。
 その理由の一つは、計画が順調に動き出したのを確認した後、邪魔な乾板を直ちに廃棄するためです。
 いつまでも金庫内に入れておけば、いつ警察に乾板の存在を知られるかわかりません。
 また、津多子は黒死館にはいないという建前ですから、邸内をやたら動き回ることもできません。
 もう一つの理由は、神意審問会で津多子に果たすべき役割があったからです。
 会の途中、ダンネベルグが「ああ算哲」と叫びましたが、よく似たことが以前もありました。
 前年5月、礼拝堂で四人が曲の練習をしていた時、ダンネベルグは扉の向こうの津多子に向けて「確かそこには算哲様が」と叫びました〈p366〉。
 その時と同じトリックを今回も使うために、津多子は神意審問会の最中、隣室にいなければならなかったのです。

《注》トリックの目的は、ダンネベルグを錯乱、失神させるためです。神意審問会は参加者の中から邪悪な存在を発見するためにダンネベルグの命令で開かれましたが、その「神意」は当のダンネベルグを指し示し、そのため彼女は「ああ算哲」と叫び、卒倒したといいます〈p135〉。この頃、ダンネベルグはすでに「殆ど狂的」〈p133〉な状態になっていました。津多子は隣室から何らかのトリックを使って、ダンネベルグに算哲の幻影を見せたのでしょう。

 押鐘夫妻も、初めは伸子を陥れるつもりはなかったと思われます。
 四人を殺害し、紙の遺言書を発表して自分たちが旗太郎の後見人になれば、鎮子も伸子も「万事休す」です。
 張出窓の下に散らばったガラス片も、早期にそれが何物であるか見破られなければいいだけです。
 ところが、易介に見られてしまいました。
 計画はその第一歩で歯車が狂い始めたのです。

 翌日、伸子が鎧通しを持って失神した姿で発見されるに至り、鎮子も反撃を開始します。
 まずは津多子の動きを停めねばなりません。
 そこで鎮子は、津多子の隠れている古代時計室に向かい、抱水クロラールを使って津多子を眠らせ、昏睡状態になったところを毛布でくるみ、室内に放置したのです。

 事態が一段落したら津多子を問い詰めるつもりです。
 津多子をあやめることなどいつでもできます。
 抱水クロラールは、鎮子が事前に薬物室から取り出しておいたのでしょう。
 津多子が薬物室に忍び入った時、その部屋の扉はすでに開かれていて、抱水クロラールにも既に手を付けたらしい形跡が残っていたといいます〈p449〉。
 薬物室の鍵は書庫に保管されていた一冊の本の中から発見されたのですから〈p230〉、書庫を管理する鎮子の手元にあったということです。
 抱水クロラールはもともとクリヴォフを狙撃する火術弩の仕掛けのために準備されていました〈p437〉。
 鎮子も、まさか津多子を眠らせるためにそれを使うことになるとは思ってもいなかったでしょう。
 古代時計室で津多子が眠っていることは、誰にも知られないはずでした。
 しかし、なんと法水がそれを言い当ててしまいます〈p297〉。
 津多子は古代時計室から運び出され、鎮子に詰問されることはなくなりました。
 しかし、警察の追及は受けねばなりません。
 それは鎮子にとっても都合が悪いことです。
 計画の全貌が明らかになるかもしれないからです。
 ですから、心外なことであっても、鎮子は津多子を全力で庇わねばなりませんでした。
 鎮子は言います、「ああいう連中(三人の外国人)がどういう防衛的な策動に出ようと、津多子様は絶対に犯人ではございません…。それにあの方は、今朝がたから起き上ってはいられますけど、まだ訊問に耐えるというほどには恢復しておられないのです。貴方なら、御存じでいらっしゃいましょう――抱水クロラールの過量がいったいどういう症状を起すものか。とうてい今日一日中では、あの貧血と視神の疲労から恢復することは困難なのでございます」〈p387〉と。
 鎮子は法水に津多子を訊問させまいと必死です。

《㊟》クリヴォフ事件後に法水らに訊問される鎮子は、今までにない、一種放心状態であるような様子を見せています〈p500〉。もちろん探偵や検事に負けまいとして威圧的な姿勢を見せますが、それでも途中に沈鬱な目を見せたりします。計画の前途と伸子の身の上への不安が見え隠れしています。

 ところで、法水は中世甲冑武者が階段の両裾から階段廊に運び上げられていたことなどから、津多子が古代時計室にいることに気づきました。〈p283~〉
 算哲は自分の世界的収集品を保護するために甲冑武者を階段の両裾に設置したが、その仕掛けが古代時計室に侵入を試みる者に恐怖を与えたといいます。
 今回の事件の犯人は、その恐怖を一度経験したから甲冑武者を階段廊に移動させたとのことです。
 法水の推理が正しければ、甲冑武者を移動させたのは津多子です。

18 クリヴォフ殺人事件


 押鐘夫妻と鎮子側との間には大きな亀裂が生じましたが、動き出した計画を停めることはできません。
 次に、二階の武具室で読書していたクリヴォフが火術弩で狙撃されました。

 クリヴォフを射た箭󠄀は彼女の毛髪を貫き、そのまま彼女自身を吊るしながら窓の鎧扉(よろいど)に命中しました。
 そのため、彼女の身体は虚空で独楽のように回転したといいます〈p358〉。
 ここの事件に関する法水の推理は二転三転します。
 最初は隻眼の津多子が射損じた〈p400〉、次にレヴェズが火術弩を自動的に発射させた〈p438〉、続けてクリヴォフ自身の失敗説〈p463〉、最後は伸子の単独犯説ですが、どれも正しいようには見えません。
 この場面は状況も法水の推理もあまりに錯綜していて、誰が犯人か断定することは不可能です。

《㊟》クリヴォフが狙撃された際、伸子が樹皮亭を離れなかったのは、鎮子から何かを指示されていたからではないでしょうか〈p382〉。とすれば、クリヴォフ狙撃計画を主導したのは鎮子の可能性があります。

 狙撃事件のことは省き、翌日の公開演奏会でクリヴォフを刺殺した犯人について考えてみます。

 演奏会で演奏したのは伸子、旗太郎、セレナ、そして前日に狙撃されたクリヴォフの四人です。
 演奏会は午後8時頃に始まりました。
 曲目の第二が始まってから法水らも席の最後列に座りました〈p472〉。
 次に津多子が入口の扉に現れ、最前列の席を占めました〈p477〉。

 その直後にシャンデリアが消え、辺りが暗黒になったとほぼ同時に演奏台上で呻き声が聞こえ、投げ出されたらしい弦楽器が階下に落ちていく大きな音がしました。
 どこからか水の流れる音も聞こえてきます〈p473〉。
 伸子がマッチの光で様子を見てみると、階下に倒れたクリヴォフの姿があります〈p474〉。
 彼女は背後から心臓を刺し貫かれ、絶命していました〈p476〉。
 法水は初め、犯人は旗太郎だと考えます。
 現場で再びシャンデリアが点灯した時、左利きである旗太郎が右手に弓、左手にバイオリンを持っていたからです〈p532〉。
 しかし、この推理も結局外れました。
 犯人は誰でしょう。
 シャンデリアが消えたのとほぼ同時にクリヴォフが殺害されていますから、当然壇上にいた他の3人が疑われます。
 しかし、凶器(槍尖)に指紋がなかったから〈p484〉、楽器を演奏していた3人ではないでしょう。
 クリヴォフは背後から刺し貫かれているので、最前列に座った津多子でもありません。
 残る鎮子、真斎、童吉、庄十郎、レヴェズのうち、凶器を矢のようにして射る技術を持つとしたら、それは庄十郎と童吉、レヴェズでしょう。
 犯人はおそらく庄十郎です。
 第一の理由は、事件の際、なぜか都合よく被害者(レヴェズもこの直後に殺される)を目撃するからです。
 その証言が「テキパキ要領を得ていた」〈p498〉というのもかえって怪しい。
 第二の理由は、庄十郎の証言内容です。
 彼は「休憩時間に自分は広間を抜け、廊下を殯室の方に歩いたが、レヴェズもついてきた。殯室の前を過ぎ、曲り角で振り向くと、レヴェズは殯室の前に突っ立っていた」と言いました。
 続けて演奏者三人が舞台に戻って来たことを証言していますから、庄十郎はまた礼拝堂に戻って来ています。
 彼の証言を信用するならば、レヴェズはそのまま殯室に入ったのでしょう。
 この事件の直後に殯室で殺害されるのだから、レヴェズがクリヴォフ殺害の犯人である可能性は低いです。

 礼拝堂付近図〈p481〉を見ると、その入口は一か所です。
 暗闇の中、誰かが瞬時にクリヴォフの背後に回ることができたとは思えません。

 しかし、一つだけ方法があります。
 それは黒死館の地下に張り巡らされた坑道です。

 その夜、算哲の墓の発掘を議論していた時、偶然坑道への入口が開きました。
 「坑道――ディグスビイの酷烈な呪詛の意志を罩めたこの一道の闇は、壁間を縫い階層の間隙を歩いて、何処へ辿りつくのだろうか。鐘鳴器室か礼拝堂かあるいは殯室の中にか、それとも四通八達の岐路に分れて……」〈p508〉。
 坑道は礼拝堂へも殯室にも通じていたのです。
 真斎も、少女時代の13年をこの邸の主として過ごした津多子も、坑道のことを熟知していました。
 礼拝堂に通じる坑道の口は舞台の下が相応しい。
 庄十郎は津多子に命じられ、坑道からクリヴォフを射たのではないでしょうか。

 津多子も何らかの手引きや助力をしたことでしょう。
 彼女は、「呻き声が聞こえてすぐに自分はスイッチのことが閃いた。誰かが何かをスイッチの中に仕掛けたかもしれないから、逸早くスイッチを自分の背で覆った」〈p478〉と証言しました。
 しかし、いかに殺人事件が連続したからとはいえ、普通の人間が部屋の電気が消え、呻き声が聞こえたからといって、咄嗟にスイッチに何かが仕掛けられたなどと思うはずがありません。
 津多子は誰かが即座にスイッチを入れるのを妨害し、庄十郎の逃走を手助けするためにそうしていたに違いありません。
 なぜなら、暗闇の中で殺人が行われたことに気づいた法水は、「明かりを(点けて)」と叫んだにも拘らず、その時スイッチを守っていたはずの津多子はスイッチには触らず、そのために会場は大混乱に陥ったのですから〈p476〉。
 実際は前室にあったメインスイッチが切られていたので〈p483〉、津多子がスイッチを入れたとしても会場の電気は点かなかったのですが、それでもこの時津多子がスイッチを入れようともしなかったのは不審です。
 津多子が事件に関わっていたことは間違いありません。
 ところで、童吉は何をしていたのでしょうか。
 彼には別の役割がありました。

19 レヴェズ殺人事件


 庄十郎の証言によれば、レヴェズは礼拝堂を出た後、彼を追うようにして殯室の前に来ました。
 そしてこの殯室で殺されました。
 その方法も非常に手が込んでいます。
 三つ並んだ手洗台の栓はすべて開かれ、溢れ出た水が殯室に向かって流れていました。
 前室の扉には鍵がかかっていたので、法水らはやむなく斧で扉を破壊して中に入りました。
 前室は濛々たる蒸気に包まれていましたが、部屋に設置された電気ストーブを止めることで濛気と高温が退散しました……〈p480〉。
 いずれも捜査を攪乱するためのものでしょう。
 この時、法水らは捜査上の大失敗を犯しています。
 前室のメインスイッチが切られていたことを確認した彼らは、それ以上奥にある殯室には進まず、レヴェズと前室の鍵の行方を探すために礼拝堂に戻ってしまったのです〈p483〉。
 その殯室でレヴェズは殺されていたというのに。
 その後、法水の“名推理”によって殯室へ向かうのですが〈p489〉、そこでようやく縊死したレヴェズを発見しました〈p493〉。
 レヴェズ殺害の時刻はクリヴォフ殺害の時刻とほぼ符合しています。
 レヴェズは垂幕の鉄棒に革紐をかけ首を吊った状態で発見されましたが、彼の気管の両側に二つの拇指の跡があり、縊死ではなく扼殺であることが明らかになりました〈p496〉。
 その指紋と照合するため、広間に残された二十余りの「忘れな壺」――黒死館と関係が深かった人全員に永遠の回想の品として作らせたもの――の内側に残る製陶者の拇指痕を調査しました。
 結果、算哲の壺に残った拇指痕とレヴェズの首に残った跡とが一致しました〈p507〉。
 死んだ算哲がレヴェズの首を絞めたのでしょうか。
 法水はレヴェズの死を自殺だと判断します。
 伸子に求婚したレヴェズが、彼女に振られたと誤解して死んだというのです〈p548〉。
 レヴェズの死はどう見ても他殺ですが、問題は彼の首に残された“算哲の指紋”です。
 誰がどのようにしてレヴェズの首を“算哲の指”で絞めたのでしょうか。

 レヴェズは公開演奏会で演奏しませんでした。
 彼のプロポーズに対する伸子の返事を観客席から確認するためです。
承諾するならば黄色いアレキサンドライトのピンを、拒絶するなら赤いルビーのピンを髪飾りにするという約束でした〈p522〉。
 この時、伸子はアレキサンドライトのピンを付けて演奏会に出たのですが、電灯のせいでピンが赤色に見えたため、レヴェズは伸子に拒絶されたと勘違いしたらしいのです。
 ここからは私の推理ですが、失意のレヴェズに声をかけたのが庄十郎です。
 「押鐘博士がお呼びです、内密にお話したいことがあるとのことです」などと言ったのでしょう。
 童吉は算哲の遺言書の管理者ですから、レヴェズは何の疑いもなく、あるいは何かを期待して庄十郎について行きました。
 行先は殯室ですが、今は物置になっています〈p479〉。
 内密の話をするにはふさわしい場所です。
 その部屋でレヴェズは、童吉によって革紐で首を絞められました。
 そこへ真斎が登場します。
 既に絞殺されたレヴェズの首を真斎が自分の手で絞め、その死体を童吉が吊るしました。

 すべては「仕掛け」のためです。
 ディグスビイ(真斎)が黒死館にさまざまな仕掛けを加えたのは、何らかの犯罪を実行するため、または捜査を攪乱するためです。
 今回の“算哲の指紋”もそれです。
 昔、ディグスビイと算哲も自分の手で忘れな壺を作り、その内側に指紋を残しました。
 ただ、記名を逆にしたのです。
 ディグスビイの壺には算哲の指紋が残り、算哲の壺にはディグスビイ(真斎)の指紋が残りました。
 こうすることで、レヴェズの絞められた首に真斎が“算哲の指紋”を残すことに成功したのです。

 レヴェズ殺害後、真斎と童吉は坑道を通って逃げました。
 真斎は障碍者を装っているだけなので、坑道を歩いて逃げることもできます。
 事件発生時、真斎は病臥していたといいますが〈p489〉、坑道を伝って自室から出入りできます。
 真斎は自ら手を下すことは避けていましたが、今回は“算哲の指紋”を残すため、黒幕自身が動いたのです。

 なお、警察も指紋について調査しましたが、その結果は徒労に終わりました〈p506〉。
 真斎の指紋が調査されていたら、レヴェズの首に残された拇指痕はすぐに真斎のものだと分かったはずです。
 では、調査はなぜ無駄に終わったのでしょう。
 それは熊城のチームの捜査の杜撰さのためです。
 調査の際、真斎は病臥していました。
 もともと歩くこともできない真斎の指紋は調べるまでもないとチームは判断したのでしょう。

20 伸子殺人事件


 作品は最後、伸子の自殺をもって終幕を迎えます。
 その経緯は以下のとおりです。
 法水はレヴェズ事件の夜、これは他殺であるとした上で伸子に次のように尋ねました。
 「算哲が一枚の遺言書を家族の前で焼き捨てた際、金庫の中にあった乾板を取り出した者がいる。その人物は他に先駆けて先にその席を出たものだが、それは誰か」と。
 すると伸子は苦渋の表情を浮かべ、「今は話せないが、後で紙に書いて伝える」と答えました〈p523〉。
 暫くして届けられた伸子の封書には、ただ「昔ツーレに聴耳筒(ラウシユレーレン)ありき」とのみ書かれていました〈p528〉。
 続けて法水は旗太郎、セレナ、伸子を呼び出し、その場で旗太郎恫喝訊問、旗太郎は気絶し運び出されました。
 一人残った伸子の肩に手を置き、法水は彼女への求愛めいた言葉を発します〈p538〉。
 ところが翌日午後、伸子は拳銃で狙撃され即死してしまうのです。
 外出着を着て手袋までつけていました〈p539〉。
 死体は室内にありましたが、拳銃は閉ざされたドアの外側にありました。
 翌日、既に始まっていた伸子の葬儀を延期させ、法水は関係者の前で事件について説明しました。
 彼の結論はこうです。
 一連の事件の犯人は伸子であり、伸子の死も自殺である、と。

 しかし、伸子が自殺したはずがありません。
 第一に、事件現場には歴然たる他殺の証跡があると検死報告書にあり、法水も初めはそれに署名しています〈p545〉。
 第二に、外出しようとしていた伸子が、突然自殺するなどということはあり得ません。
 第三に、支倉が語るように、前夜「旗太郎が犯人に指摘され、伸子は勝利と平安の絶頂にあった」はずです〈p548〉。
 方法も状況も動機も、いずれの面も自殺ではないことを示しています。
 伸子が封筒に「昔ツーレに聴耳筒ありき」と書いたのは、「黒死館の各所に盗聴器が仕掛けられ、話の内容はすべて盗み聞きされている」という意味でしょう。
 盗聴している人物とは、真斎です。
 黒死館の元の主である津多子も聞いていたかもしれません。
 犯罪計画の存在を知る伸子は、真犯人に繋がる情報を迂闊に話すわけにはいかないと思ったのでしょう。
 それまでも伸子は、特定の人物が怪しいとか、誰かを調べてほしいとか言ったことはありません。
 彼女は犯罪計画を知りつつも、犯罪の進行に積極的には関わっていなかったと思われます。

 法水が伸子の肩に手をやった時、彼は「ところで、ああしてガラガラ蛇の牙は、すっかり抜いてしまったのですから、貴女は懼れず僕に、例の約束を実行して下さるでしょうね。もう、何も終って、新しい世界が始まるのですよ」と語っています。
 「例の約束」とは何でしょう。
 「新しい世界が始まる」とはどういうことでしょう。
 これは、「事件のことはすべて終わらせ、私とともにこれからの人生を歩みましょう」という意味にしか聞こえません。
 伸子は法水とともに黒死館から逃げ出そうとしたから、外出着を着ていたのです。
 伸子を疑わない法水なら、きっと最後まで伸子を守ってくれます。
 今なら監禁と殺人に溢れたこの邸から逃げ出すことができます。
 だから伸子は殺されたのです。

 伸子が法水に重要情報を伝えようとしていること、法水も伸子に接近しようとしていること、二人が手を取って黒死館から逃げ出すかもしれないこと。
 そんなことを疑わせる二人の音声が、盗聴器を通して真斎や津多子の耳に届いたのでしょう。
 もし計画が漏れたなら、真斎や津多子は逮捕されます。
 復元された乾板の記載から、黒死館の遺産がすべて伸子に奪われる恐れもないわけではありません。
 真斎は算哲の遺志を汲んで伸子を支援してきましたが、伸子が裏切るのなら話は別です。
 伸子を許せないと考えた真斎によって、彼女は殺害されたと私は思います。

21 推理小説『黒死館殺人事件』の価値


 以上、黒死館で起こった一連の事件とその背景について、“事実に基づいた合理的な解釈”を加え、真犯人を特定し得たと思います。
 事件は算哲の遺産を巡る争いが原因で生じ、押鐘夫妻と鎮子伸子親子が協力し、真斎が黒幕となって進められたが、内部矛盾が生じ、結局伸子が殺され彼女にすべての罪が押し付けられる形で事件は「閉幕」を迎えた、ということです。
 これまでも示唆したように、伸子は鎮子から犯罪計画の詳細までは知らされていませんでした。
 鎮子に指示されて、何らかの役割は果たしていたでしょうが、犯罪に関わることだと知らなかったかもしれません。
 理由は二つあります。
 第一に、ダンネベルグの時も易介の時もクリヴォフの時も、伸子は一番の容疑者でした。
 もし積極的に計画に関わっていたなら、伸子はもう少しうまく立ち回ったはずです。
 クリヴォフが殺害されると知っていたなら、最も疑われやすい場所にいたはずがありません。
 第二に、鎮子が娘の手を汚したいと思うはずがないからです。
 娘の幸せを願う母なら、伸子を犯罪者にしたいとは思いません。
 汚れた仕事はすべて自分が引き受け、娘には後ろ指を指されずに生きてほしいと思うでしょう。
 しかし、その親心が最後には裏目に出ます。
 算哲も同じです。
 父と母の「娘の幸せ」を願う心が、結果的に娘を死なせてしまいました。

 「黒死館殺人事件」はまだ終わっていません。
 押鐘夫妻がこのまま旗太郎の後見人になり、狙い通り算哲の遺産を奪い取ることはできるでしょうか。
 その場合、邪魔者のセレナはどうなるのでしょう。
 真斎と夫妻の間にトラブルが生じる可能性もあります。
 大人になった旗太郎が、押鐘夫妻の言いなりになるとは限りません。
 鎮子からの反撃もあるかもしれません。
 警察の捜査がこれで終わったとも言えません。
 様々な結末が想像できるのもこの作品の魅力です。
 以上のように捉えれば、ペダンチスムや超難解というイメージばかりで語られる『黒死館殺人事件』の色合いも、全く違ったものになるのではないでしょうか。
 私の思う本作品の魅力を三点にまとめました。

22 終わりに


 私の謎解きは以上です。
 しかし『黒死館殺人事件』は複雑怪奇で、私もたびたび道に迷い、羊を見失いました。
 今も見失ったままのものがいくつもあります。
 算哲はなぜ魔法書を焼いたのか〈p158〉、誰かが自分の部屋に侵入したというクリヴォフの言葉〈p267〉は彼女の虚言〈p349〉なのか、伸子の部屋のささくれに残った衣服の繊維の意味は〈p418〉……。
 法水の衒学趣味はすべてノイズとして扱ったので、私の推理は根本的に間違っているかもしれません。
 ただ、今まで本作品の真犯人を“実証的に”探し出そうという試みはあまりなかったようなので、その嚆矢にはなれたのかもしれません。
 新たな謎解きが生まれることを期待しています。
 ともあれ、長い考察をここまでお読みいただき、心から感謝申し上げます。


 次回、「事件経過表」をアップする予定です。
 皆さんが本書を読まれる時の参考にしていただければ幸いです。

〈初出〉YouTube 音羽居士「謎解き『黒死館殺人事件』①~③」2024年1月 一部改

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