漢詩自作自解③「代少壮詠羈旅」
2020年1月中旬、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の世界的な感染拡大が明らかになりました。
当初は何が起こったのか判然とせず(今も判然としていませんが)、目に見えない恐怖に襲われるような感じがありました。
その前年の12月、私はまだ武漢にいたのですが、周囲にはすでにどことなく異様な雰囲気が漂っていました。
私たち外国人教師には何の連絡もなかったのですが、学生たちには「繁華なところへやたらと出るな」というお達しがあったようです。
政治的なことや歴史的なことはご法度な国柄ゆえ、あまり詳しく人に聞くことはしませんでしたが。
翌年、つまりコロナ騒動が起きた年の1月1日、私は楚河漢街という繁華街に出かけました。
楚河漢街とは、武漢市にある沙湖と東湖の間に新たに運河を開削し、その運河に沿って建設された巨大なショッピング街で、2011年9月に開業しました。
全長2キロに及ぶ街並みは、休日などに行くといつも黒山の人だかりです。
中国の正月は春節と呼ばれ、旧暦に祝うものですが、1月1日も祝日ですし、多くの観光地や繁華街はかなり賑わいます。
それが、この日は人通りがそれほど多くありませんでした。
イベントらしいこともほとんど行われていません。
私は何やらうすら寒いものを感じ、早々に宿舎に帰りました。
その後、私は冬休みの帰省のつもりで1月7日に帰国しましたが、いくばくもなくパンデミックが発生し、中国との往来は途絶えました。
間一髪(というほどでもありませんが)、私は中国から脱出できたわけです。
武漢に残された日本人がチャーター便で帰国できたのはその月の下旬からです。
以下に紹介する漢詩は2020年2月7日の作品です。
張冬晢君ですが、家の仕事の関係もあり、1月23日に雲南まで出かけていました。
実は、その当日をもって武漢市がロックダウンされ、その後、全国の都市にまで波及してしまいました。
気の毒なことに、張君はそのまま雲南の町に一か月にわたって足止めされてしまったのです。
気丈な彼のことですから、弱音を吐くようなことはなかったのですが、武漢に彼女が残っていたこともあり、とても心配していたことだろうと思います。
2月6日、彼から1枚の写真が送られてきました。
文面はなく、ただ写真だけです。
雲南の夕景色。
淡く焼ける空と暗がりゆく山影。
芭蕉の葉が生い茂る丘陵の向こうには、巨大な建物が聳え立ちます。
おそらくホテルとして建てられたそれも、中国で「烂尾楼(建設途中で未完成のまま放置されたビル)」と呼ばれる廃墟のようです。
南方に位置する省とはいえ、二月の夕暮れの山辺に吹く風はきっと肌寒く感じられたことでしょう。
情景のすべてが彼の心象風景であるように感じられました。
私は彼の心中を想像し、一首の詩を詠み、彼に送りました。
代少壮詠羇旅
少壮に代わりて羇旅を詠ず
雲南日暮山気涼
雲南日暮 山気涼し
客舎聳峙天上蒼
客舎聳峙す 天上の蒼に
欲飲醇酒解旅愁
醇酒を飲みて旅愁を解かんと欲するも
心却如麻慮香房
心は却って麻の如く 香房を慮う
〈口語訳〉
青年に代わって旅の心を詠む。
雲南の夕暮れ時に山を眺めると、空気はとりわけ冷え冷えと感じる。
目の前には巨大なホテルが聳え立ち、蒼い天空を貫いている。
美酒をあおって旅の愁いを解こうとしても、
心はかえって麻のように乱れ、ただあの人のことが思い出されるばかりだ。
〈語釈〉
〇少壮…血気盛んな若者。
〇羇旅…旅。故郷を離れて、よその土地に身を寄せること。
〇雲南…雲南省。南はベトナム、ラオス、ミャンマーに接する。
〇客舎…旅館。
〇聳峙…そびえ立つ。
〇醇酒…濃くてよい酒。
〇如麻…(麻糸がもつれるところから)乱れるさま。
〇慮…「おもんぱかる」と読む字であるが、ここは「思い計る」の意ではなく、「憂える(憂慮する)」の意であるので、「おもう」と訓じた。
〇香房…若い女性の寝室。その部屋に住む彼女のこと。
〈押韻〉
涼、蒼、房
下平声 七陽
野暮を承知で付け加えれば、雲南の夕景を視覚でとらえ、山の冷気を触覚でとらえ、醇酒を味覚と嗅覚とでとらえました。
脳裏できっと彼女と対話していたでしょうから、聴覚も働いていたと言えます。
むしろ、最も鋭くあったのは、彼の心の聴覚であっただろうと思います。
張君から感謝の返事が来たことはもちろんです。
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