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古典擅釈(18) 正気と狂気 増賀⑤
多武峰に遁れて後も、増賀の名声はいよいよ高まったようです。
正暦二年(九九一)九月十六日、七十五歳の増賀は、東三条院詮子御落飾の戒師に招かれます。
詮子は関白太政大臣兼家の娘で、円融院皇后、一条天皇母后、この時、皇太后でした。
その詮子が、増賀を戒師にと特に指名したのです。
増賀の奇行はここに極まります。
詮子は戒師依頼の使者を、増賀のもとへ遣わしました。
増賀は「とても貴いことです。この私が立派に尼になし申し上げましょう」と答えました。
弟子たちは、増賀がその使者を叱りつけて打つのではないかとはらはらしていましたが、思いの外に心安く引き受けましたので、珍しいこともあることだと胸をなでおろしました。
さて、その日になりました。
貴族や高僧たちが大勢集まり、内裏からの勅使も列席する中、増賀は現れました。
恐ろしげな目付きで、尊いさまですが、何となく具合が思わしくない様子です。
詮子の前に招かれると、御几帳のもとにさし寄り、出家の作法を済ませ、長く美しい御髪を几帳の間から手繰り寄せて、その髪に鋏を入れました。
女房たちはこの様子を見て、はげしく泣き騒ぎます。
儀式は、実にすばらしく執り行われたかに見えました。
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ところが、儀式が終了して外に出ようというとき、増賀は大声をあげて言いました。
増賀をしもあながちに召すは何事ぞ。心得られ候はず。もしきたなき物を大きなりと聞こし召したるか。人のよりは大きに候へども、今は練絹のやうに、くたくたとなりたるものを。
この増賀をわざわざお召しになったのは、どういうわけか。納得できませんな。ひょっとして汚い一物が大きいとでもお聞き及びか。いかにも人のよりは大きゅうござるが、今では練り絹のようにへなへなとなってしもうたわい。
余りのことに、御簾近くに控える女房たち、公卿、殿上人、高僧たちは、目や口を大きく開いたままであったと言います。
詮子の気持ちは言うまでもありません。
尊さも何もかも消えうせて、皆、冷や汗を流し、茫然自失の状態になりました。
あぜんとする人々を横目に、増賀はさらに破天荒な振る舞いに及びます。
「年をとって、風邪もひどくなり、今じゃもう下痢ばかり患っておりますので、参上すまいと存じましたが、わざわざお召しいただきましたので、用心して参りましたわい。こらえきれなくなってきましたから、急いで退散いたしますぞ」
こう言うと、出ぎわに西の対の屋の縁側にしゃがんで、尻をまくり、水差しの口から水を出すように垂れ流しました。
また、その音の大きいことといったら、この上ないほどです。
詮子の耳にも達しました。
若い殿上人たちは、手をたたいて大笑いをします。
僧侶たちは、「こんな狂人を戒師にお召しになるとは」と口々にけなしました。
『宇治拾遺物語』より
まことに下品な話です。
正気の沙汰とは思えない、というのが正直な感想でしょう。
作り話ではあるでしょうが、増賀の目で事態を見つめ直してみましょう。
そもそも、詮子とはいかなる人物であったか。
関白太政大臣の娘に生まれ、皇后、皇太后と上りつめた、いわば女性としての栄耀栄華を一身に集めた人でありました。
出家して東三条院と称しましたが、これは我が国における女院号としては初めてのものです。
院号を得たということは、上皇に準じる待遇を受けたということです。
弟には、あの道長がいます。
「この世をばわが世とぞ思ふ」生涯であったに違いありません。
その詮子が、後世をも思うままにしようと、出家を志しました。
その戒師には、高貴な身にふさわしく、名僧の誉れ高い増賀を指名します。
その儀式も、定めて豪華絢爛なものであったでしょう。
遠回しに言うのはやめましょう。
詮子は嫌な女だったのです。
『今昔物語集』は、出家後の彼女を伝えます。
源信僧都が托鉢のおり、都の善男善女が仰ぎ施すなか、詮子はことさらに銀の器をあつらえ、僧都に食事を施しました。
僧都はこれを見て、「あまりにひどい」と言って、托鉢を中止します。
また、年に二度の法会を営みますが、その完璧さがかえって顰蹙を買っているありさまです。
詮子落飾の儀に臨んだ増賀は、すべてを見抜いたのでしょう。
まだ、三十歳の詮子の髪は、長くつややかでしたが、増賀はその髪から伝わる彼女の醜い欲望や情念を手に感じ取っていたに違いありません。
それらの醜悪さを一切断ち切ってしまわなければ、落飾などといっても茶番に過ぎないではありませんか。
内実がわかってしまった以上、増賀がこのままで済ませるはずがありません。
しかし、増賀は儀式そのものをぶち壊しはしませんでした。
出家の儀式は成就されねばなりません。
なぜなら、出家とは一種の死の体験であるからです。
出家者は、ほとんど名利や恩愛のみを価値基準とする俗界から、それらを超越した仏界へと生まれ変わらねばなりません。
その死と再生の儀式を、仏徒である増賀が破壊することは許されません。
けれども、儀式が終わり、詮子が正式に尼として認められたとき、もう増賀は欺瞞を許しませんでした。
猛烈なやり方で、その欺瞞を崩しにかかります。
上品という名の虚偽を破壊するには、最も下品な方法でするにしくはありません。
出家にとって最も大切なことは何でしょうか。
それは、見てくれや体裁、上品さや豪華さではありません。
何よりも道心であり、名利を捨てる心です。
増賀がそれらに苦しんだように、出家はそれらに苦しまなければなりません。
そのことを、増賀は、増賀のやり方で、詮子をはじめ取り巻く貴族や女房たちにわからせようとしました。
それは、所詮、彼らに通じるものではありませんでした。
しかし、そこに再び増賀の慈悲の心を見ることができるのです。
野卑で尾籠な行為の中に、仏の慈悲が見えるのです。
〈続く〉