心の内に潜んでいる「慢」。~反応しない練習より~

反応しない練習

「反応しない練習」という本を読んだ。あ、読んでない途中だ。これは仏教関連の本で近年結構話題になった本。現段階ではとても読みやすい本、わかりやすい上に文体も難しい感じではない。

Amazonレビューも700件ほどありさすが話題の本だ。

それはさておき、今回も思ったことをつらつらと書く。

特に気になった「慢」についてのことを書く。

「「慢」という心のビョーキに気をつける」という章

気になった部分は以下

人を苦しめる「判断」には、「自分はエライ」「正しい」「優れている」と肯定しすぎる思いもあります。仏教では、こうした心理を「慢」とよびます。
慢は、いっときは自分を肯定できる気がして心地よいのですが、高慢、傲慢、プライド、優越感といった思いは、結局、不満や自惚れゆえの失敗を招いて、損をします。(原文のまま)

ここらへんでは結局、「判断は手放しなさい」ということが書かれている。しかし少し「慢」が気になったのでこれについてを思ったことを書こうと思う。

これを読んだ時の私の考えてたこと

・「私には、そんな慢はたぶんないな~、特に不満もないし自惚れているわけではないしな~」
・「もし慢を持ってしまったら、すぐ捨て去ろう」

でした。しかし、ふとそう思っている自分に気づくと、

・「まてまて、私は『他の人と違って慢はないな』と優越感に浸っているのではないか?」
・「慢がないことが優れていると思っているのではないか?」

そう私にはもしかしたら、「私には慢がない」という慢があったのかもしれない。

埋もれた慢

私は基本的には、「慢はあまりない」と思っている。少なくとも普段の意識の中では。

しかし一方で、慢がある人(高慢な人、傲慢な人、プライドの高い人…)をで軽蔑しているときがある。
私の言う軽蔑とは、「私はそんな高慢じゃない、なぜあの人はあんなに高慢なのか、まったくダメな人だ」というような類いのものだ。しかも大抵その人のことをよく知らないで軽蔑してる。

よく考えてみると、これも慢の1つなのではないかと思う。

慢がある人を軽蔑していたが、実際は自分も慢がある人だ。

気づきにくい心

自分が一体何を思い、何を感じているのかは意外とわからない。

無意識は本来気づけない。

無意識に気づくには他人の言葉、あるいは他人そのものを見る必要もあると思う。

まとめ

高慢な人を見て嫌悪感を抱いたりすることは、よくあると思う。

しかしながら、高慢な人を軽蔑し続けているとそれはそれで「慢」なのかもしれない。それに軽蔑していると必ず自分にもそういう時、そういう部分があるから苦しくて仕方がない。

ある程度、慢があることを許容することが必要かもしれない。ちなみにある程度がどのくらいなのかは知らない。

仏教には逆説的なことが多いけれど、まさに慢があることを認めることで慢は減っていくのかもしれない。

いつまで、私は慢があるないゲームを続けるのだろうか。

全く関係ないんだけれども、noteの中で「かもしれない」ってめちゃくちゃ使ってる。私の中ではまだまだ答えではないのかな。

参考

草薙龍瞬(2015) 反応しない練習~あらゆる悩みが消えていくブッダの超・合理的な「考え方」~ KADOKAWA

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