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誰かが描けば良いとおもっていた

絵を描くことに人生の半分くらいは費やしてきたはずだ。

けれど、世の中には良い絵が溢れていて自分の描きたいものも見つからなくて、なんなら描いてないし。
描くほどの熱量も技術もなくて、プライドも邪魔して。描いたとしてもこんなはずじゃない、と。
自分が描くことの意味が見出せない時期が長いことあった。

先日友人と話している時にその話題になった。

「前に楓ちゃんが言っていたのと同じ気持ちになっている、良いと思う絵は世の中に沢山あるからわたしが描かなくても良いやという気持ちだ」と。

切なくなるくらい、分かる。

この時期は本当に辛い。
わたしの場合は絵を描くことが好き、というより描いている自分が好き、なのだ。だから描かないことは存在理由、生きる意味さえ見失うことと同義だった。
描かない自分、描いている人を見ること、描きたいものがある人、その時間がある人、全てを呪った。
ただただ描くことを楽しんでいる人たちへの羨望と嫉妬。

羨めば羨むほど描くことへのハードルは上がり、描きたいものは不明瞭になっていった。
不明瞭になると、思考も煩雑としていって絵に対する思いだけは高尚なものとなった。

より描くことから離れる一方だった。


脱するには描くしかなかった。
描きたいものがなくても、時間がなくても描く。スキマ時間で、手の動くまま描く。
描いたものを世に出す、描いていることを知ってもらう。見てもらう。
クオリティは後回し、とりあえず手を、脳を、生活を描くことに慣らす。
描くことで輪郭を帯びていく。どんなものが描きたいのか、少しづつ見えてくる。

他人が、他の人が描けばいいと思っていた。描ける人、自分より絵を描くことが好きな人が描けばいいじゃないかといじけていた。
けれど、じゃあわたしの描きたい風景は、誰が描いてくれるのか。
もう無くなってしまった実家の八百屋を、コインランドリーに酒屋、ガラス屋。文房具屋。わたしの脳内にしか残っていないわずかな記憶、それを具現化できるのは。

自分しかいないじゃないか。


早く描かないと。記憶は年々薄れていっている。
ガラス屋さんの内装はもうあまり覚えていない。
文房具屋もわたしが中学に上がる前に店をたたんだから、店主のおばあちゃんがどんな顔だったか思い出せない。
そういう詳しいことを細かく覚えていた祖母ももうこの世にいない。

描きたいもの、覚えている人、記録にないもの。
それを描けたらどれほど幸せだろうか?

今は描くことがとにかく楽しい。
とりあえず描くかとペンを持つと、あっという間に一時間が過ぎている日もある。

正直眠くてしんどくて、今日は描けないと思う日もある。ただ、次の日自分に落胆することが怖くて描いている。

疲れたときは簡単に描いておしまいにする。
描く時間が確保できないと予測した時点で、落書きだけでもしておく。
とにかく描いたという実績を残す。
自分を自分たらしめるために。

描いている自分が好きだから、描くしかない。
描いている、ということでしか自信が持てないから。毎日絵を描いています。と、胸を張って絵を描いていると言える自分になるために。

絵を描くことは自分を保つための手段。
誰かじゃない、自分しか描けない。
他人が描けたとしても、自分が描きたい。

とりあえず今は自分のために描いている。

2024.01.24

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