自由と正義、そしてテクノロジーがもたらす未来
正義の反対は悪なんかじゃないんだ。正義の反対は「また別の正義」なんだよ。
言わずとしれたクレヨンしんちゃん、野原ひろしの名言だ。これも間違っているとは言わないが、実は正義にはもう一つ対立概念がある。
「自由」だ。
ワンピースの世界でも悪役であるはずの海軍の背中に「正義」の文字がたなびく一方でルフィが目指すのは海で一番「自由」な奴。実はここにも正義と自由の対比が描かれている。さすが尾田栄一郎。
今回はこの対立構造をより深く理解するために「自由」側に属している概念と「正義」側に属している概念をざっと並べて説明してみようと思う。
正義が増長すると自由が失われ、自由が拡大すると正義は黙る。
自由 ⇔ 正義
経済・テクノロジー ⇔ 法律
個人 ⇔ 組織
論理 ⇔ 感情
小さな政府 ⇔ 大きな政府
1.経済・テクノロジー(自由) ⇔ 法律(正義)
経済やテクノロジーは人々の「自由」な活動から生まれる。そしてそれらを「正義」に基づいた法律が規制する。インターネットはもちろんのこと、最近であればドローンや仮想通貨、Uber、Airbnbなどのシェアリングエコノミー、大麻。考えてみれば新しいビジネスは常に法律のグレーゾーンからしか生まれない。現在この世の春を謳歌しているYoutubeだってはじめは著作権問題で散々批判されていたのだ。経済やテクノロジーは本質的に正義(法律)と対立する。
2.個人(自由) ⇔ 組織(正義)
個人はいつだって「自由」だ。しかしひとたび組織に属すると、組織の「正義」に縛られる。国や企業、もちろん学校も。そこには組織をまとめるために必要な正義がある。しかし団結を促すための正義は時に大きな副作用を伴う。第二次世界大戦で言えば日本には日本の正義があり、アメリカにはアメリカの正義があった。そして日本の正義は特攻隊という悲劇を生んだ。特攻隊は個人の自由が消滅し、組織の正義が全てを黙らした最たる例だと言える。
3.論理(自由) ⇔ 感情(正義)
「自由」を重んじるコミュニティで優先されるのは科学的根拠やそれに基づいた論理だ。なぜなら「正義」というベースがないので、常に議論の出発点は普遍的な真理である科学であり、それに基づく論理であるからだ。争いが起きた場合でも科学的根拠や論理に基づいた解決が模索される。一方「正義」は正義を信じる人や組織の数だけ存在するため常に矛盾をはらむ。矛盾を解決するための論理は存在しないので、争いが起きた場合は感情をもって解決が行われる。文字通り情に訴えるのかもしれないし、権力者による仲裁かもしれないし、もしくは暴力かもしれない。冒頭の野原ひろしの言葉どおり、「正義」は「正義」と対立する。
4.小さな政府(自由) ⇔ 大きな政府(正義)
小さな政府や大きな政府という言葉自体は経済学でよく使用される言葉だ。平たく言ってしまえば小さな政府は低福祉低負担、大きな政府は高福祉高負担の国家を指す。北欧は高福祉高負担、アメリカは低福祉低負担、日本もどちらかと言えば高福祉高負担の国家と言えるかもしれない。高福祉高負担の国家は自由を信奉する人々からは忌避される。なぜならば彼らは課税を「自由」の侵害だと捉えるからだ。ドストエフスキーによれば「貨幣とは鋳造された自由」である。もしかするとルフィはただ単に世界で一番のお金持ちを目指しているだけなのかもしれない。
さて4つほど対立構造を紹介してみたが、他にもたくさん「自由」と「正義」の対立は存在している。みんなも暇な時に考えてみよう。
自由 ⇔ 正義
多様性 ⇔ 同質性
若者 ⇔ 老人
能力主義 ⇔ 年功序列
自由主義者 ⇔ 保守主義者
リバタリアン ⇔ コミュニタリアン
ちなみに僕が「正義」に対して感じている一番の問題は「容易に絶対化する」点にある。「正義」はたしかに素晴らしい概念かもしれないが、「正義」を信じる人々は他者にもそれを強制し、時に不寛容となる。最近で言えば、コロナ下における自粛警察がわかりやすい例かもしれない。またテラスハウスの木村花さんも「正義」の棍棒によって殴り殺された一人だろう。「正義」を絶対化すると、人は他者に対して不寛容となる。
一方で「自由」を信じる人々が争うとすれば、それは自らの「自由」が侵害された時のみだ。だって「自由」は決して人に押し付けることができないから。唯一、攻撃的な言葉があるとすれば「好きにすれば?」ということぐらいか。「自由」には寛容さがある。
ただこれだけではフェアではないので「自由」の欠点についても述べておきたい。「自由」が蔓延した世界は弱肉強食の世界となる。格差社会が極限まで進んだアメリカを見ればよく分かるが低福祉低負担の国家では富の再配分がうまく行われない。
この格差という問題をどう解決すべきか。僕を含む「自由」を信じる人々にとっては頭の痛い問題だが、僕は究極的にはテクノロジーが解決すると考えている。なぜならばテクノロジーの本質は「個人に力を与えること」だからだ。
大昔は王族や貴族しか食すことのできなかった珍味を今では誰もが食べられるし、何週間もかけて行われた長距離の移動も鉄道の発展によって数百円で可能となった。全てテクノロジーの発展が個人にもたらした恩恵だ。ならば現在では金持ちにしか許されない「遊んで暮らす」という行為も、将来的には誰もが可能となるだろう。
…僕の妄想に過ぎないだろうか?
最後にもう一つ「自由」と「正義」の対立概念を紹介して、この記事を終える。
「過去」は正義の時代。「未来」は自由の時代だ。僕はテクノロジーの発展が個人をどこまでも自由にし続けるのだと信じている。
参考図書:
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