菊花文様刺繍総疋田絞振袖 <昭和初期>
日興証券創業者である遠山元一翁が長女貞子のために誂えた総疋田絞りの振袖である。美術館の所蔵品であるのでここでは少々技術的な観点で述べたいと思う。
全体的には斜線状に整えられた疋田絞りに円を描くように配置された刺繍の菊花文様の美しい構図である。
菊花文様は、不老長寿を意味する文様ではあるが、高貴、高尚、邪気払いなどの意味もあるとされている。
菊の表現は複数花弁で表現され、一見天皇家の菊紋章を彷彿させるが、花弁の枚数も重なり合いながら多く表現され、十六枚菊とは大きく異なる表現である。
菊花と菊葉は「刺し繍」と呼ばれる平面を繍詰める技法であるが、この刺繍は糸の方向、重ね方を常に確認しながら刺していかねばならず、縫い糸が乱れてしまうと花や葉の表現が雑になってしまうため、非常に高度な刺繍の技術であり、この刺繍をした職人の技術力の高さと表現力の高さが感じられる。
また1つ1つの菊花と葉の輪郭がしっかりとエッジが効いており、立体感、奥行き、躍動感が感じられる。
花の中心と五つ紋の二つ引両紋は金糸による駒取り刺繍(俗称:金駒刺繍)によって施され、金糸を抑える留糸が綺麗に整っているところも、この職人の技術力の高さがうかがえる。
さらには、これほどまでの厚みのある刺繍でありながら、前身頃のみならず、袖付、脇縫い、背裾などの合口がピタリとあっている。このような飛び柄で刺繍の厚みのある柄の場合、合口を合わす大変さに加え、仕立て時もかなりの難しさを要するため、前身頃以外は極力合口を避けて構図を考えるケースが多いが、これにはその一切の妥協がない。
もう一つ驚くべきことは、斜線状に絞られた疋田絞りが身頃、背縫い、袖付、脇縫いの全てが綺麗につながっているところだ。
これは初期図案の雛形の段階で考えられて、疋田絞りの設計となる型紙を白生地に置く際にきちんと計算されていることを示し、なおかつ、仕立てる上で和裁士ともきちんと連携されていたことが容易に想像できる。
この作品を見たときに一つ疑問を持っていた。遠山家のような資産家の名士がなぜ本疋田ではなく疋田にしたのか?である。
本疋田絞りは一つの文様を絞る際、四つに畳み6回〜7回糸で括る。それによって疋田の点がより細かく、深い鹿の子紋様となる。だがこの作品は四つ巻の疋田絞りである。
考えられることは、本疋田絞りの点文様は小さいが上に、全体的に生地の地色が多く出る。地色が白であれば、白が多く出るのである。それに対して四つ巻き疋田絞りの点はそれより大きくなり、表現したい色が主体的になること。そして本疋田よりも一つ一つの絞りが浅くなるので、刺繍加工がしやすいということである。恐らく発注されてから図案〜加工、仕立てに至るまでかなりの時間を要したのではないかと思われる。
この振袖には打ち揚げがなく、裾にはふき真綿が入っている。衿の折り目の跡もなく着用した形跡がない。恐らく婚礼時の披露、または何かの祝い事の飾り衣装として使われたのではないかと思われる。
いずれにしても遠山元一翁の子女に対する愛情の深さが強く感じられる美しい振袖である。
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