
教師不幸論 3
教師はよく言葉を発する仕事だ。
人前で話すことが子どもの頃から好きでこの仕事に就いた人もいるのではないだろうか。
教師が言葉を発する場面をざっくり書き出すと
○子どもとの会話
○子どもへの発問
○子どもへの指示
○子どもへの注意
○大人同士の会話
ここで使う言葉が、教師の思考癖を決めている。
割合的に、指示・注意が多くなる傾向があると
ーしましょう。ーしなさい。
ーすべきです。ーしてはいけません。
このような言葉が多く用いられる。
意識的に言葉を変換している人もいるかもしれないが、忙しいしバタバタしていると教師という立場にある限り、無意識に使ってしまいがちな言葉ばかりだと思う。
この言葉は子どもに影響を与える以前に
脳に繰り返し刻まれていくことで
私たちが心で感じたことに蓋をするという問題を起こす
これが自分らしい幸せの在り方を遠ざけていく。
それは、どういうことか。
下の子どもを見て
『廊下を走ってはいけません。』『廊下を走るな。』
『廊下は歩きましょう』
と声をかける。
これが瞬時に、教師に求められる声かけだろう。
頭で判断した怪我を抑止するための声かけだと思う。
そこで提示した答えは『走らない』の一択だ。
ここで、心に手をあて想像を膨らませてみよう。
いくらでも、走る理由は思いつく。
さらに言うと、誰しも走る気持ちは理解できる。
子どもの時に一度は皆走ったものだ。
しかし、教師は『危ないから注意する』だろう。
教師はこれを繰り返すうちに、心で感じることに蓋をするトレーニングを重ねてしまうのだ。
授業で答えを提示する私たち。
絵を描くときにモデルを示す私たち。
掃除のやり方の順序を教える私たち。
そこに無数の答えや考え、方法があることを知っていながらも、一斉指導の名の下に、ある程度固定化された答えを提示しなければならない。(と思い込んでいる)
まあそれは、私たちの仕事上、仕方ないことだ。
世の中には、答えが一つで明示できるものと
答えが人の数だけあるのものがある。
そして、世の中は想像以上に
答えが人の数だけあるのものに溢れている。
そんな中、私たち教師は答えを提示することが多い。
それを繰り返し、知らぬ間に私たちは心から湧き出る無数の言葉たちに気づけなくなってしまうのだ。
心に蓋をすることとは、
『自分のこうしたい。』という気持ちを見失うことだ。
心では、『走りたいよな、わかるわかる。』
頭では、『危ないから注意しないといけない。』
頭優位で、注意を続けると、心の言葉に目を向けなくなっていく。
そして、頭と心の不一致が繰り返されていく。
飛躍するように感じるかもしれないが、この小さな習慣が脳に刷り込まれることが
『なぜ、働いているのか。』
『どんな夢を持って働いているのか。』
『自分はどうしたいのか。』
などのような問いに対する自分の思いを遠く、遠くに沈めていってしまう原因になる。
無意識の奥底に沈んだ、自分の思いはどんどん取り出しにくくなってしまう。
これを『メンタルブロック』と呼ぶ。
ずへこべ言わず、働かなければならない。
その答え、一択がその人の体を突き動かす。
理由なきコントロール。
そうして、鬱になる人だって多くいる。
本当に熱心な仲間たちこそ、そうなっていく。
とにかく、忙しい私たちの仕事。
だからこそ、時間の余白を作って、自分の使っている言葉を整理してみせんか?
自分らしい在り方、well-beingが求められる時代に。
私らしさって何かなんて考えられない!
私の幸せって何かわからない。
というままだと、子どもたちに伝える言葉も、届きにくくなりそうな気がしませんか。
ーすべきと言ってしまうことは仕方ない。
ーしなさいが癖になっていることも仕方ない。
忙しいんだから。
でも。だからこそ、その無意識の習慣に向き合い
そういう自分の言葉と向き合い
さあ、どうしよっかなあって考える。
ねぇ、自分はどうしたいって問うてみる。
そんな時間が大切なんだと私は思う。
自分のことはいくらでも変えられる。
一つの言葉を変えれば、どんどん変わる。
一つの見方を変えれば、どんどん変わる。
すると、パッと明るく開けたワクワクする世界が広がる気がするなって思っています。
こうすべき、こうしなければならないという一つの答えの呪縛から自分を解放してあげましょう。
私のオススメは、無意識言葉メモ作り。
自分が言葉に出していない内言、知らぬ間に言っている言葉の中の、マイナス言葉、決めつけ言葉を書き出して、それをポジティブ言葉や柔らかい柔和な言葉に変換して貯めていく。
これが新しい自分との出会いがあって結構面白い。
方法はいくらでもある。
みんなで変化を楽しみましょう。