優しい先生VS厳しい先生
この二項対立から抜け出せぬまま、教師としての自分のあり方を迷う人も多いのではないでしょうか。
私も迷ってきた、その1人です。
優しいと言われる私は、厳しいと言われる姿でいようとした時期もあります。
それが、ちょうど3.4年目頃。
優しいと評されることが、嬉しくなかったんだと思います。
それでいいの?と問われているようで。
ただ、自分には厳しいは合わなかった。
厳しいととことん厳しくなり、すごく怖い。
面白さを備えた人は、その塩梅がうまい。
私は、人を笑わせるような面白さを苦手としていることもあり、緩急がうまくつかなかった。
そんな感じで、
正直、その人に合う合わないもあると思います。
ただ今は、それ以上に
そこに信念や志、プライドがあるかどうかがなんだということに至りました。
私は、優しさに信念を持っている。
しかし、
ただ優しい先生という表現には納得しない。
私なりの信念
私は優しい先生なのではない、
子どもがありたい自分でいられる環境をつくっているだけだ。
ただ優しい先生だと評されたのであれば、
それは私の実現力が足りていないだけである。
これは、鈴木信太郎という画家が、自分の絵を思わぬカタチで評されたときの言葉を模しています。
『独特なタッチを指して、「童画風」言われることもあったが、信太郎はそれは自身の「造形力が不足」しているためであり、「全く私の意図していないこと」「有り難くない」と綴っている。』
引用 暮しの手帖 autumn2022 10.11月号
本当に潔く、謙虚で、かっこいい生き様だと思い、尊敬しています。
私は、優しさを纏うことで、
子どもが自分が心地の良い言葉で語り
子どもが自分らしい姿で振る舞い
子どもが自分の好きな自分であれる。
そんな場所を実現したいのです。
厳しさは時に、相手への意識を強めます。
相手が喜ぶ言葉を発したり
相手が望む姿を演じたり
相手に好かれる自分でいようとする。
そんな子どもたちの姿は見たくないのです。
だから、私は優しさを纏っている。
けれど、それは本質ではない。
時に、厳しさで表現することもある。
子どもが自分らしくいることを安易に手放そうとするのであれば、私ははっきりものを言う。
覚悟を持って、厳しさで表現する。
優しいと舐められるとか。
厳しくしなきゃダメとか。
そういうことで悩ませてくる人に問うてみましょう。
『あなたが厳しくするのはなぜですか。』と。
そりゃ、そうせなあかんやろ!
が答えなら、その人の厳しさについてのアドバイスは聞き流しましょう。
あなたがその人らしさを感じる答えなら、そこから学びましょう。
そこには、厳しさや優しさだけでは評せない、信念があるからです。
何事においても、信念には通ずることがある。
だから、厳しさを纏う先生にだって、
僕は心底かっこいいと思う人はいます。
その人に合った、その人のあり方を突き詰めた先に、子どもの幸せがあるのであれば、私は教育に関わるどんな大人であっても尊敬できます。
口だけでなら、なんとでも言える。
それを姿・カタチで実現していく力。
それをしっかりと突き詰めていきたい。
そういう大人になっていきたい。