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『忘路集』二宮冬鳥 好きな歌を抜書き

二宮冬鳥(1913〜1996)

片頬を布団にあてて寝てゐるはこころよしこころよきことは少なし

 頭の上に腕おきて寝なば楽と姉いひき考へてみれば六十年まへに 

コンタクトレンズつけたる現身のなきがらをときに思ふことあり

よろこびて赤きメロンを日日たべてをればことしの梅雨も過ぎたり

眼鏡かけてをらざるわれに叩かるるごぎぶり一つ今日の夜の果て

九州に最も早くもず鳴くは五島といふ五島とは五島列島をいふ

ひとりにて口あけてゐる時のあり口あくる歌つくりたるのち

十二日は東京歌会西笑集を二十五頁から読むといふ

特異的に一つの注射いたがりし人もみまかりぬ歳の葉書に

夜ふかく目ざめゐるとき音たてて人の車がかならず行けり

夜の明くるまへに厠にをりたれば牛乳瓶の入りたる音す

眼を病みてゐる間(ま)しばしば雪ふりし二月の過ぎて三月すぎぬ

胸の上に手を組みて寝ることあれどたちまちにしてほどくその手も

片眼にかさなる複視なげきゐる視野を燕が擦過す今日は

新しくせる洗濯機の楽しさを妻がきて言ふ日にひとたびは

歯科の椅子に横たはりつつ思ひをり右の眦より涙が出てゐる

少年に物憂かりし夏の日のにほひ折折おもふ老い到る日に

夜おそく降りいづる雨をよろこびの訪れのごと眠るそのたび

アメリカに落としてきたるネクタイピンこの世の外の塵くづひとつ

ロンドンのハロッズのいふ店を知る愚かにも服とネクタイを買ひて

妻つりてゐしわがズボンの落ちたるを来たりて吊るすことなどがあり

塀の外に駐車してゐる自動車の屋根が光りていつまでもあり

長崎の五島の天気予報あり夜よるに見るあはれのひとつ

文藝春秋が珠玉の歌集といひくれし『壺中詠草』も売るることなし

庭の石うつし捨てむときめしより俄かに楽し老いといふものも

目のさめて庭のおもてをうつ音を雨とぞ思ふすでに過去より

遠くにて妻の上履の音きこゆ縁なき者のごときそのおと

対岸も此岸も車きれめなく人はみづから時を喪失す

庭の上に雪のふりくるひと日にて街に出づれば道のうへのいろ

蟬の声いたくへりたるいちにちをなほ暑がりて折折うごく

まちなかのわが庭にきて赤とんぼ一つとどまる空気のなかに

英国よりとどけるくすり冷蔵し一生(ひとよ)のさちのごとく注射す

くちづけをしてくるる者あらば待つ二宮冬鳥七十七歳

雑誌買ひに今日は徒歩にて出でてゆき道の上に売る沢庵を見る

診療ののちしばらくの腕くみて夜にきたらぬ眠りを追へり


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