「静寂」と「騒音」
一度想像してみてほしい。
普段生活している世界の中で一切の「騒音」が存在しない場所。
それは音だけを登場人物に絞る必要はない。
騒音の中には聴覚的騒音はもちろん、内部的騒音(心の中の煩悩など)も情報的騒音(不要不急のニュースや通知など)もすべて含まれている。
我々が生活している世界には常に騒音となりうるものが存在する。目まぐるしく動く自動車の視覚的・聴覚的騒音。目まぐるしく飛び交うニュースやメールやチャットの情報騒音。部活や試合、仕事やプレゼン、家庭や友人関係における難しい状況やストレスにさらされている内部騒音。どれもこれも音に限らず人間自身に多大なる騒音を響かせ、感じさせている。
あらゆる計画や期日という未来からの命令(制限)の中で目標至上主義の世界の中で頂上へ一直線で向かい、一番早く、効率的にたどり着いたものにプライズが贈呈され、それらのものが優秀と判を押され眺望の目を向けられる世界。目指すべきゴールは一つであると示され、暗黙の了解的に人々は一点に向かっている。そして無意識的に向かってしまっている者もいるはずである。
しかしそれはあくまでも予定やシステムの中で生きている世界でだけ価値が発生しており、本来の人間としての生の営みとはまた違った種類のものであるような気もする。
そのような世界のなかでも空白や余白を満たさなくても良いという事実や恐れを受けいるれることが静寂でもある。
無駄を生産してみる、混沌を静観する、登らなければ居ても立っても居られない自分を静止させる。
何かを生産し、何らかの成長を遂げ、掲げた目標に真剣に向かう。とても大切なことでありこの体系的な目標達成プロセスは大谷少年が大谷翔平を生み出すパワーを複利的に増幅させきたし、今尚作り出しているはずだ。
しかしながら、その精神は生産・成長・勝利至上主義の中での趣向でありツールである。
つまり、システムや秩序がなく混沌とした山肌、のびのびと咲いている花や森林の木々が彩る緑の世界は現在の資本主義社会での値打ちはゼロ換算であり、それらを伐採加工して、販売することで初めてこの世の中に利潤(付加価値)が生み出されていることを意味し、GDPに計上されるということだ。これが生産であり、利益(profit)だ。
この志向はもちろん人間が人間を見る目に無意識的に生じているレンズの翳りである。
どちらのほうがという議論でもない。ジャッジするのも難しい。バランスも難しい。どちらも大切である。
だが、「もっと自分に集中しろ」とアウレリウスには𠮟責されるだろうと思いながら、ぼんやりと自省録を読み返す。
自分の利益を追い求めて自己中心的に振る舞えという意味ではない。
周りの情報、周りの人、周りの評価という「騒音」ばかりに侵され、周りとの相対化でしか自分をジャッジできない、自分から離れている者への忠告である。
自分の感覚や感性や身体を研ぎ澄まし、多くのことに自分から気がつけるような状態を作り出すこと。自分に語りかけられたり、自分の目の前に用意されて初めて”気がつく”のでは鈍すぎる。
騒音には少し鈍感になり、静寂にはより敏感になる精神を養うことが向かうべき頂ではないかと示唆されている。
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