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「静寂」と「騒音」

一度想像してみてほしい。
普段生活している世界の中で一切の「騒音」が存在しない場所。
それは音だけを登場人物に絞る必要はない。
騒音の中には聴覚的騒音はもちろん、内部的騒音(心の中の煩悩など)も情報的騒音(不要不急のニュースや通知など)もすべて含まれている。

情報が消費するものは明白そのものだ。情報は受け取る人間の注意を消費する。したがって、豊富な情報は注意の貧困をもたらす。

ジャスティン・ゾルン、リ・マルツ『静寂の技法』

我々が生活している世界には常に騒音となりうるものが存在する。目まぐるしく動く自動車の視覚的・聴覚的騒音。目まぐるしく飛び交うニュースやメールやチャットの情報騒音。部活や試合、仕事やプレゼン、家庭や友人関係における難しい状況やストレスにさらされている内部騒音。どれもこれも音に限らず人間自身に多大なる騒音を響かせ、感じさせている。

あらゆる計画や期日という未来からの命令(制限)の中で目標至上主義の世界の中で頂上へ一直線で向かい、一番早く、効率的にたどり着いたものにプライズが贈呈され、それらのものが優秀と判を押され眺望の目を向けられる世界。目指すべきゴールは一つであると示され、暗黙の了解的に人々は一点に向かっている。そして無意識的に向かってしまっている者もいるはずである。

しかしそれはあくまでも予定やシステムの中で生きている世界でだけ価値が発生しており、本来の人間としての生の営みとはまた違った種類のものであるような気もする。

そのような世界のなかでも空白や余白を満たさなくても良いという事実や恐れを受けいるれることが静寂でもある。
無駄を生産してみる、混沌を静観する、登らなければ居ても立っても居られない自分を静止させる。

近代登山のあり方(近代的思考様式)と漂白登山とでは明確な違いがある。端的に登頂を目指すのが近代的登山。目標地点に向かって真っ直ぐ進む。こうした不自由さ、煩わしさを発生させている元凶こそ、頂を目指す、目標地点に到達するという登山の一方向的、直進的な近代的行動原理。

そのような思考の中で漂泊するといういう少し外れた行為は現代人には思いつきづらい。目的も不明確で、道順も曖昧で、何に命を脅かされるかわからない混沌とした環境を排除しているから。

角幡唯介『裸の大地 第一部 狩りと漂泊』


何かを生産し、何らかの成長を遂げ、掲げた目標に真剣に向かう。とても大切なことでありこの体系的な目標達成プロセスは大谷少年が大谷翔平を生み出すパワーを複利的に増幅させきたし、今尚作り出しているはずだ。
しかしながら、その精神は生産・成長・勝利至上主義の中での趣向でありツールである。

私たちの経済の成功とはGDPの増加、音と刺激とモノの最大限可能な生産を意味するという考え方に基づいて構築されているのとちょうど同じで、個人の成功も似た種類の「成功」、すなわち社会関係資本と情報資本関係と金融資本関係の継続的蓄積次第の場合があまりにも多い。生産は繫栄だというメッセージが所狭しと混在している。

ジャスティン・ゾルン、リ・マルツ『静寂の技法』


つまり、システムや秩序がなく混沌とした山肌、のびのびと咲いている花や森林の木々が彩る緑の世界は現在の資本主義社会での値打ちはゼロ換算であり、それらを伐採加工して、販売することで初めてこの世の中に利潤(付加価値)が生み出されていることを意味し、GDPに計上されるということだ。これが生産であり、利益(profit)だ。
この志向はもちろん人間が人間を見る目に無意識的に生じているレンズの翳りである。

どちらのほうがという議論でもない。ジャッジするのも難しい。バランスも難しい。どちらも大切である。

だが、「もっと自分に集中しろ」とアウレリウスには𠮟責されるだろうと思いながら、ぼんやりと自省録を読み返す。

間もなく君は死んでしまう。それなのに君はまだ単純でもなく、平静でもなく、外的な事柄によって害を受けまいかという疑惑から解放されてもおらず、あらゆる人に対して善意を抱いているわけでもなく、知恵はただ正しい行動をなすにありと考えることもしていないのだ。

名誉を愛する者は自分の幸福は他人の中にあると思い、享楽を愛する者は自分の感情の中にあると思うが、モノのわかった人間は自分の行動の中にあると思うのである。

マルクス・アウレリウス『自省録』(岩波文庫)


自分の利益を追い求めて自己中心的に振る舞えという意味ではない。
周りの情報、周りの人、周りの評価という「騒音」ばかりに侵され、周りとの相対化でしか自分をジャッジできない、自分から離れている者への忠告である。
自分の感覚や感性や身体を研ぎ澄まし、多くのことに自分から気がつけるような状態を作り出すこと。自分に語りかけられたり、自分の目の前に用意されて初めて”気がつく”のでは鈍すぎる。

たくさんの香の粒が祭壇の上に投げられる。
あるものは先に落ち、あるものは後に落ちる。
しかしそれはどうでもよいことだ。

何らかの意味において美しいものは全てそれ自身において美しく、自分自身に終始し、賞賛を自己の一部とは考えないものだ。実際に人間は褒められてそれによって悪くも善くもならない。例えば天然の物質や人工的な制作物についても同じことがいえる。
美しいものは何かそれ以上のものを必要とするか。否、それは法律や心理や善意や慎みの場合と少しも変わらない。これらのものの中に何がいったい褒められるから美しく、非難されるから悪くなるであろうか。エメラルドは褒められなければ質が落ちるのか。

マルクス・アウレリウス『自省録』(岩波文庫)


騒音には少し鈍感になり、静寂にはより敏感になる精神を養うことが向かうべき頂ではないかと示唆されている。

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