kd11

毎日いろいろな本に生かされていますが、特に古典、思想書、哲学、小説に世界を魅せられる事が多いです。 日々の着想を残したく、似たような感覚が得られた本紹介をエッセイとして残しています。

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毎日いろいろな本に生かされていますが、特に古典、思想書、哲学、小説に世界を魅せられる事が多いです。 日々の着想を残したく、似たような感覚が得られた本紹介をエッセイとして残しています。

最近の記事

「静寂」と「騒音」

一度想像してみてほしい。 普段生活している世界の中で一切の「騒音」が存在しない場所。 それは音だけを登場人物に絞る必要はない。 騒音の中には聴覚的騒音はもちろん、内部的騒音(心の中の煩悩など)も情報的騒音(不要不急のニュースや通知など)もすべて含まれている。 我々が生活している世界には常に騒音となりうるものが存在する。目まぐるしく動く自動車の視覚的・聴覚的騒音。目まぐるしく飛び交うニュースやメールやチャットの情報騒音。部活や試合、仕事やプレゼン、家庭や友人関係における難しい

    • 旅と偶然と不確実と奇跡と

      今日、このいま、生かされている「生」は必然ではない。 いくつもの偶然と他力、不確実な時間と空間、そして偶然と奇跡が重なってできた総合的な生だ。 そんな中で「自分」は、いついかなる時も必ず自分と言えるだろうか。 幸福な時、悲しい時、劣勢の時、その時々で現れる自分は同一の自己を有しているだろうか。朝の自分、昼時の自分、夜の自分、ご飯を食べるときの自分、トレーニング中の自分、パートナーといるときの自分、友達といるときの自分、家族といるときの自分、愛犬(猫)といる時の自分、明らかに

      • 「答え」が応えるもの

        いつもこちらから主体的に思想や世界をつかみ取りにいかないといけないのが古典であり哲学であり、エッセイであり、特に小説である。 小説は、 あきらかな答えがわからず、謎もおおく、理解できないこともたまにある。 ものによっては長く、幻想とか形而上的な、私にとって意味不明な展開を羅列される。 自らが外に向けて「問い」を立てている時、早く簡潔に「答え」を求めて、すでに答えが書いてある部類の動画や本に手を伸ばすこともあるだろう。 しかしながら、重要で骨太な「答え」が手早く簡潔に手に入

        • 規定現象と奇跡を内包する空間を偏りなく多く視る

          世界や日常は、いつもそうイメージした空間を通過し、創造されていく。 自分を取り巻いている世界は、受動的に取り巻かれているのではなく、自分の偏った思考や解像度の低いレンズが写し、主体的に取り巻いている。 それなりのプロセスやアクション、思考を重ねれば、試行錯誤をしながらも、概ね自らの思考のレールから外れることはなく、心を満たす幸福感に浸ろうと思えば実現できる主体的な世界である。 毎秒無数にも枝分かれしている運命があることは理解できるが、肌で感じる想定外は日常には少ない感覚がある

          言葉を見逃す日々

          2~3ヶ月に1回は飛行機という期待(機体)に乗車する。 僕は腰痛持ちなので、同じ姿勢でずっと座っているのは辛いのだが、この時間が不思議と好きだったりする。 「乗って、向かう先」が僕を詳細に語るうえで、一つ、かかせない人に会いに行くために使うことが多いからだろう。そのような利用シーンが重なって僕の脳が勝手に、 「飛行機=自分を必要な一部分に運んでくれる大きな機体(期待)・空間」 という錯覚を起こしているためだろうと思う。 これが、毎四半期・毎年地獄の心身強化合宿のために利

          言葉を見逃す日々

          夜と霧の中で

          今まで、僅かながらいろいろな良書(言葉やフィクションや歴史や偉人)と出会ってきた。 その中でも繰り返し繰り返し繰り返し、まるで定期的に行われる衣替えのように、読み返さなければならない本がある。 著者は、ホロコーストが行われていたナチス政権時代の方で、強制収容所から奇跡的な生還を果たしたユダヤ人のヴィクトール・E・フランクル。 精神科医だったフランクルは、冷静な視点で収容所での出来事を記録するとともに、過酷な環境の中、人間たちが日々起こした絶望や希望から「生」とは何かを哲学

          夜と霧の中で

          「脳業」生活と「農業」生活

          たとえば、 都心と田舎、パソコンと軍手、革靴と長靴、 ネクタイとTシャツ、アスファルトと土、高層ビルと畑。 現代社会でいくと正反対のような印象をうける。 モノや情報に溢れた都心やネットの世界と違って自分から働きかける必要があるが、 今の生活に必要なことが詰まっている。 都会は人間だけが住むことを想定し作り上げられた環境であり、いわば「脳業生活地帯」。 大人も子供も玄関から足を踏み出すと、社会的な立場を背負って過ごす日々だ。 そこに自然と共生しながら暮らす「農業的生

          「脳業」生活と「農業」生活

          野菜と人の違い

          たとえば、 たくさん収穫ができる野菜と 少ししか収穫できない野菜がある。 何が真実なのかはまだ、わからない。 僕は人と野菜の決定的な違いを、 野菜は 愛を注いだ分だけ、必ず愛で返ってくる だと思っていた。 だが、愛を注いだつもりでいては、 収穫期にフラれてヘソを曲げることになる。 まるで今年のピーマンのように。  「あれだけ愛を注いだのに。。」と思うかもしれない。 果たして受け手(野菜たち)は、 本当に快くその愛を受け取れていたのだろうか。 おそらく彼ら(ピーマ

          野菜と人の違い