旅と偶然と不確実と奇跡と
今日、このいま、生かされている「生」は必然ではない。
いくつもの偶然と他力、不確実な時間と空間、そして偶然と奇跡が重なってできた総合的な生だ。
そんな中で「自分」は、いついかなる時も必ず自分と言えるだろうか。
幸福な時、悲しい時、劣勢の時、その時々で現れる自分は同一の自己を有しているだろうか。朝の自分、昼時の自分、夜の自分、ご飯を食べるときの自分、トレーニング中の自分、パートナーといるときの自分、友達といるときの自分、家族といるときの自分、愛犬(猫)といる時の自分、明らかに違う感覚があるだろう。
偶然や奇跡を含みながら進んでいる生である。
そして、周りから見た自分の生は「ありえたかもしれない生」であり、
自分から見た他者の人生も「ありえたかもしれない生(自分)」である。
ハムレットのこの言葉がどんよりと思い浮かぶ。このような感覚にも訳すことができるような気がしたが、今回は二元論ではなく、このまま生きながらも「ありえたかもしれない生」を覗き、味わい、相対化することは誰にでも可能であるような気がする。
ありえたかもしれない「生」
「ありえたかもしれない生」を覗き、相対化することが今の自分の人生を引き受けるうえで大事な思考の手がかりとなり、世界を視覚するための一手となる。
旅(旅行や遊びやデートや放浪)をする醍醐味(意味)はこんなところにもあるのだろう。
今現時点の自分の生とは脈絡のない土地や空間や人に、半ば「サプライズ的に」出会いにいく。そして現在引き受けている人生と強引に引き合わせ、今見えている世界を相対的に視覚する。
加えて、視覚的な映像として、または感覚として、心に残り続ける写真などのようにその瞬間の気持ちや映像・体験が、衝撃としていつまでも残ったりもする。物理的にも誰かや何かと出会い、「ありえなかった生」が展開することも多分にある。
その瞬間に聞いていた音楽や一緒にいた人、読んでいた本などのつかみ取り方もひと味違うものになるだろう。
「あの時聴いていた音楽だなぁ」
「ここはあの人と一緒にきたなぁ」
である。改めて言語化してみても素敵だ。
ふと、どこかで同じような感覚で訪れるなつかしさや儚さが「経験」という抽象的な歴史を彩る美しさになる。
訪れた旅先の宿で働いている人、地元ツアーガイドの人、隣で笑顔でご飯を食べているどんな仕事をしているかは不明のそこが地元っぽい人、その土地にいた警察官などそれぞれの生が並行して進みながら、旅の瞬間は目の前で重なり合う。そして今引き受けている自分の人生とは全く別の一生を思い浮かべてみる。
「ありえた生」である今の自分を肯定し、愛していくための「ありえたかもしれない生」であり「ありえなかった生」である。
そこには儚さや虚しさや眺望があるかもしれないが、少しの安堵と少しの幸福感が内包されている気がする。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?