「答え」が応えるもの
いつもこちらから主体的に思想や世界をつかみ取りにいかないといけないのが古典であり哲学であり、エッセイであり、特に小説である。
小説は、
あきらかな答えがわからず、謎もおおく、理解できないこともたまにある。
ものによっては長く、幻想とか形而上的な、私にとって意味不明な展開を羅列される。
自らが外に向けて「問い」を立てている時、早く簡潔に「答え」を求めて、すでに答えが書いてある部類の動画や本に手を伸ばすこともあるだろう。
しかしながら、重要で骨太な「答え」が手早く簡潔に手に入れられるものかどうかは自分にも問うてみるべきである。
ときどき、「小説ってなんのために読むの?」や生産性がどうのこうのという発言を耳にすることもあるが、私はそう思ったことは一度もない。
近くの答えを求めた先にある応えは「省略ができた」という高い生産性だろうか。
答えが応えてくれるものに含まれる内容が”それ”なのであれば、すこし寂しい感覚を覚える。
人間の深さや幅はどこまでいっても、生産性というモノサシなんかで測ることはできない。
資本主義経済が定着したのは人類の歴史をみてもここ最近であることは誰にも隠されていないが、意外と見過ごされているかもしれない。
日常はついつい目の前のレースや道だけしかないように感じてしまうが、実はすべてが連結している一つの長い道のようなもので、
目の前に見えているだけのレースや道で、
”だれかを抜いた・だれかに勝利した”とか、
”だれかに抜かれた・だれかに負けた”などに、
たいそうな意味は含まれていない。そしてレースかどうかも不明である。
10年前、5年前、3年前、1年前、半年前、1か月前、1週間前、昨日、の自分が持ち合わせていなかった言葉(感情)や思想や心、哲学や技術や筋肉を、
「今日も明日も少しずつ。」蓄え、積み重ねられている感覚を持ち合わせていれば十分な気がする。
特に学生時代に一緒に汗を流してきた友人の多くに、この感覚を無意識に持ち合わせているかっちょいい男が多く、目の前に見えているだけのものにほとんど一喜一憂はしない。
数百万キロある長い道のりの内の「今この数千キロ地点で靴ひもを結んでたら遅れたけど、目標タイムで必ず完走する」と今にも電話がきそうなくらいである。
わかりやすい「答え」ではなく、わかりにくい「問い」が含まれている
小説というものに、答えというものはなく、ただただ思考させるための世界や言葉や感情を、答えから離した場所に「わかりにくい問い」として提起しているだけな気もしてきている。
振り回されることはもうやめましたが、私の思想はすでに著者に振り回されているのかもしれない。
目先の答えを知ったところで、運命は絶え間なく進行方向を変えて、翻弄してくる。そして目先(最新)の答えは賞味期限が短い感覚がある。
そのときはそのときで考える
冒頭7ページ(カラスと呼ばれる少年)で出てくるフレーズで、カラスと呼ばれる少年はそう言った。
いくらどうしようと決めたところで、そのときはそのときで違う見方や認知・感じ方をして、そのときはそのときで考えるものなんだと。
まるで、猫や犬などの動物が日光を浴びてぬくぬく昼寝をしているみたいだ。
眠かったら寝る。お腹がすいたら食う。起きられなかったら、そのときはそのときで考える。そんな思考が顔からにじみ出ている。
彼、彼女らは過去とか未来とかに悶々と悩み苦しむことは一切なく、
今この瞬間の、呼吸や音、太陽の有り難さや森羅万象の彩り、生きているという実感に満たされているだろうスーパーリアリストである。
おわりに
『カンガルー日和』に収録されている『四月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて』という短い作品。『1Q84』のモチーフになったとか。
嘘のない嘘がとても素敵なので是非。
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