8.ライフ・アフター・カタストロフィ
トシとイチがサークルで出会った二〇〇七年、トシが十九歳、イチが十八歳だったとき、二人はすでにどちらも悲しかった。
トシは中学三年生、十五歳のときに、初めての彼女ができた。トシにとってその体験は、単なる桃源郷の体験だった。
トシの初恋はおそらく一歳か二歳のときで、当時近所に住んでいた同い年の女のコだった。
トシの記憶にもないほどの幼い日のことではあるが、両親に当時の話を聞いたことがある。
トシはいつもその女のコと話したがっていて、手をつないで歩く時には大はしゃぎで蕩けそうだったと。写真も見せてもらったことがある。
その女のコと手をつないで撮ったその写真を見ると、たしかにトシは大はしゃぎに見えた。
つないでいないほうの手で太ももの辺りを叩きながら、軽く天のほうをあおいで顔には満面の笑み、跳び回りそうな浮かれ具合が伝わってくる。
ものごころついてからのトシの初恋は、四歳か五歳のころ、保育園の同じクラスの女のコで、他の女子たちよりも少しだけ背が高くてすらっとした女のコだった。
保育園では女子たちに追いかけられるほどモテたことのあるトシだったが、その女のコとはそれほど仲良くなれなかった覚えがある。
小学生になると、トシは市内の反対の端に引っ越した。
一年生のときに同じクラスだった女のコは、学年の中でもとびきりに可愛かった。
トシは当時学童保育所に入っていて、その女のコは入っていなかった。
それで二人の帰宅時間はいつも別々だったから、土曜日などの学童保育所がない日にだけ、トシはその女のコと一緒に帰れた。
穏やかな昼下がりのぬくもりの中を、その女のコと二人で帰った道のりは、今でもトシの貴重な思い出である。
やがて三年生ぐらいになると、トシは自意識が高まってきて、その女のコと上手く話せなくなった。
隣のクラスに離れ離れになってしまったその女のコと廊下で行き会ったりするようなとき、トシはどうしてよいかわからずあいまいに笑ってやり過ごすだけで、そんな風にしかふるまえない自分を呪った。
四年生のときに同じクラスに転校してきた女のコを、トシは好きになった。
しかしその頃にはトシの肥大化した自意識は、もはや幼い日々のように素直にはしゃぐことを自分に許さず、トシはその女のコと特別に親しくなることができないままだった。
五年生や六年生になり、その女のコと同級生としての普段の会話以上の親しさをどうしても持てない自分をどうにかしたいのにどうしていいかわからなかったトシは、そんな自分に対してのコンプレックスにまみれていった。
道を歩くだけでも、どこかの曲がり角からその女のコが現れるのではないかと期待するほど四六時中夢に見ているのに、現実のトシはめったにその女のコと言葉を交わすことすらなかった。
自分以外のグループと親しげに放課後を過ごすその女のコの姿をいつも見ては、打つ手のない意気地なしの自分に叱咤を入れるのだが、臆病さと無知で堅固になったトシの自意識は一歩も動かないのだった。
十二歳で中学校に入った後も、トシのその片思いはつづいた。
中学に入ると生徒数は二倍以上に増え、人間関係は少し複雑になった。同級生の中でもまばゆい女のコたちが、各クラスに数人ずつ散らばっていた。
トシはそういった女のコたちへの憧れをいつも感じていたものの、同級生としての普通の親しさ以上のものが生まれるということはなかった。
学年の中で、誰と誰が付き合っているだとか、誰が告白してフラれたらしいとか、そういった華やかな話題が時おりあったが、それらの話題のどれ一つとして、その登場人物としてトシの名前が挙げられることはなかった。
トシが小学生のころから片思いを続けていた女のコは、やがて一人の男のコと特別に親しくなっていた。
トシが男友達同士の集団で公園でキャッチボールや缶蹴りなどをして遊んでいるとき、トシの片思いの女のコがその男のコのこぐ自転車の後ろに乗って通りすぎることなどがよくあった。
トシの遊ぶ公園の隣には小学校があって、その小学校のブランコに二人が一緒に乗っているのをトシはチラリと見ながら、うだつの上がらない自分の甲斐性のなさに心底から情けなさを感じるのだった。
もしもまばゆい女のコたちの誰か一人から自分が選ばれることがあるのなら、そのためにトシは何を投げ打ってもよいと思っていた。
トシの人生において、いつの日か自分に恋人ができる日が来ることをどれほど待ち望んでいても、それは永遠の先にあるかのようにとても手の届かないものに思えた。
十四歳のトシにとって中学生活は終わりのない日々で、その中で何かの変化が起こるなどありえないことだと思えた。
中学三年生のとき、トシは髪を美容院で切るようになった。
メガネを外してコンタクトレンズに替えた。
セーターを毛玉だらけのウールから、見栄えのよいコットンに替えた。
トシ自身の変化はそれだけだったが、それで十分だった。
同級生は皆一様に、十四歳から十五歳をむかえ、自意識の扱い方を少しずつ心得てきているようだった。
男子も女子も、胸の高鳴りを上手く乗りこなして、相手とそつなくしゃべるコツを身につけ始めた。
当たり前のものとして男子と女子の間にいつもあった距離感の隔たり、あいまいなためらいの壁は、いつしか少しずつ融解してきていた。
三年生になると部活がなくなり、放課後にたまたま残っていた男子と女子で、漫然とおしゃべりをする機会も生まれてきた。
体育館の用具室に皆で入り込んで、マットやジャンプ板で遊んだりした。
昼休み前の掃除の時間が終わっても、男子も女子も惜しむかのようにいつまでも箒を手放さなかった。
歩いている時に、トシは遠くから女子に名前を呼ばれて手を振るようになった。
体育の授業でスポーツをしているときに女子の集団が側を通りかかり、女子が数人で声を合わせて誰か男子の名前を特別に呼んで応援してくれるようなとき、そこにトシの名前が含まれることもあるようになった。
それらすべてが、トシにとっては夢の実現だった。
ある女のコと話すのが、トシは特別に好きだった。
それは同級生のまばゆい女のコ達の中でも、特別に眩しいとトシがずっと思っていた女のコだった。
中学三年のときには給食をずっと同じ班で食べていたから、トシとその女のコが話す機会は多かった。
トシはその女のコと話す時の、距離が近づいていくような親しい感情は、自分だけが感じているものだと思っていた。
しかしいつしか、トシとその女のコは周りからも特別な目で見られ始めた。
トシは隣のクラスの男のコから、その女のコと付き合っているのかと訊かれた。
なぜわざわざそのようなことを訊くのかとトシが問い返すと、トシとその女のコが親しげに話しているのを見たし、今では皆が噂しているからだという答えが返ってきた。
その質問はトシを有頂天にさせた。自分自身がついに噂の登場人物になるなど、かつてのトシは、自分が生きているうちにそこまでたどりつけるとは思っていなかったのだし、ましてやそれがあれほどに眩しい女のコとの噂なのだから。
ある時、トシはクラスの中でも面倒見のいい、体育祭のリーダーをやらされていたようなタイプの男のコから、話を受けた。
トシと噂になっているその女のコから彼が相談を受け、その女のコはトシのことを好きなのだ、と。
もしもトシも彼女のことを好きならば、告白してやってくれ、と。
トシの脳内には満開の花が咲き、異論のあるはずもなかった。
それからの日々、二人で過ごした放課後や休日の時間は、トシの桃源郷だった。
イチの過去の恋愛について、トシはいくらか聞いたことがある。
高校一年生のとき、雑誌のモデルもつとめていた可憐な女のコと付き合っていたという。
始めは順調に進んでいたその恋も、時の経過と共にすれ違いが増えていった。
次第に体の触れ合いもほとんどなくなっていきながら、イチはその女のコと付き合っていた二年間、一度も自慰をしなかった。
彼女への愛がありながら自慰をするその行為を、自分自身に許せなかったのだ。
当時のイチの、十六歳にして一年を大きく越える禁欲は、もちろんいくらか狂っているだろう。
しかしトシは、イチのその話を聞いたとき、どこかわかるような気がした。
美しいものがもはや完成されていたから、イチはそれに手を触れられなかったのだ。その女のコとの蜜月が終わっていると半ば知りながら受け入れられず。かつての愛の純粋さにいつまでも殉じたのだ。
自分が変わってしまえば、完成された美をおかすことになるから、時を凍結させるしかなかったのだ。
トシもイチも、美しすぎた。
自分自身が美しかったから、美しい少女たちに愛された。
美しい少女たちを愛し、美しい少女たちに愛されている自分自身が、また美しかった。
日々は美しく、時は止まった。
はずだった。
しかし時は、それを許さない。
至上の美が、やがて時によって引き剥がされ、遠ざけられ、変えられていくことに対して、少年だったトシとイチに為す術などなかった。
トシとイチは、それ以来ずっと戸惑ったままだった。
自分たちが最も美しかったときに、最も美しいものと出会い、最も美しい日々を過ごした。
やがてそれらの美が、美それ自身や自分たちの事情とは関係のない理由によって崩れていったあとに、そんな二人はいったい何をすることがあっただろう。
かつてそこにあった美しい日々のがらんどうの空洞を見つめて、きっとただ呆然としていたのだ。
書く力になります、ありがとうございますmm