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【読書メモ】手の倫理

「さわる」「ふれる」どちらも英語で言えば touchです。その違いを考えたことありますか。

本書は、味わい深い表現で「さわる」「ふれる」に関する考察が述べられています。わたし達のコミュニケーションのあり方やその本質を深く考える機会となりました。

印象に残ったことをひとつあげるとすれば

「さわる」「ふれる」を端的に表したのが以下の記述です。

 もちろん、「さわる」は本来、物に対する触覚を指し示す言葉です。しかし、そのアプローチの仕方が一方的な、つまり伝達的なモードになるとき、人の体に対する触覚であったとしても、それは「さわる」になってしまいます。目も合わせずに、人の肩に突然手を当てる。そんなときは「さわる」です。
 緊急の危険が迫っているときなどは、とっさに「さわる」が必要なこともあるでしょう。けれども、それはどんなに相手の身のためになっていたとしても、一時的に相手を物として扱っていることになります。「ふれる」を取り戻す必要があります。それは、倫理が発生する、人と人の関係を含んだ触覚です。

「さわる」は物に対しての表現。「ふれる」というのは人と人の関係の中で表れるというのが本書の整理です。また、コミュニケーションのモードとして「伝達モード」「生成モード」という定義も出てきます。詳細は、本書を読むと伊藤さんのさまざまなエピソードと共にこの定義を味わうことができます。ここでは、わたしなりの無味乾燥な整理を書くと「伝達は一方通行」「生成は双方向」となります。

そこからあれこれ考えたこと

コミュニケーションは、本質的に双方向です。一方的な伝達のつもりでいても、常にフィードバックがあります。視覚や聴覚に比べると物理的な接触をともなう触覚は、それを感じやすいはずです。

ところが、そのことに意識的でないケースが多々あるように思います。ハラスメントはその典型です。返ってきているはずのフィードバックを無視した行為です。相手を無視して物理的にも精神的にも触れるから、相手にとっては不快であり、時に大きく傷つけるのです。

本書のあとがきに「盗みさわられ」という表現が出てきます。

ところが、電車の中で感じた母の手は、ほとんど無意識的な、柔らかいさわり心地をひたすら味わうような動き方をしていました。「汚れを落とす」とか「薬を塗る」とかいった目的から解放された、純粋にさわることを楽しんでいる手。私にとって大きな喜びだったのは、母が母自身の快楽のために自分をなでているように感じられたことでした。お母さんにとって、自分はさわりたくなる存在なんだ! その動きが無意識的であればあるほど、母の手は自分という存在をまるごと肯定してくれているような感じがしました。

「盗み見」のように相手に知られずに「盗みさわる」ということです。著者の伊藤さんが幼いころ、電車の中で寝てしまって、ほんのり覚醒するとお母さんが寝ている自分をなでていることに気づいたという話です。お母さんは、伊藤さんが起きていることを知りません。伊藤さん側からの意識的なフィードバックはないけれど、お母さんは、伊藤さんから返ってくる感触を楽しんでいる。そのことが伊藤さんはうれしい。親子という関係性があり、そこに身体があるからフィードバックが起こり、信頼が「生成」されます。ハラスメントとは対照的なお話です。

なぜリアルコミュニケーションが恋しいのか

わたし達は、コロナ禍において接触することにセンシティブになりました。マスクをすることで表情が分かりにくくなりました。フィードバックを遮断するようになっています。

コミュニケーションが制限されて、最初に直観的に思ったのは、それで安心する人もいるだろうなということです。自分からのフィードバックを感じようともせずに一方的に伝えてくる人もいるからです。あるいは、フィードバックを過剰に受け止めて疲れるからです。

それでも「やっぱりリアルが良いよね」と思います。このとき、思っていることが伝わりにくいからという理由では不十分です。伝わっているかどうか分からない、というのも不十分でしょう。わたし達が会いたいのは、信頼関係を生成する殻をやぶるのが気持ち良いからです。

オンラインで殻を破れないというつもりはありません。ただ、リアルに体があることで「ふれる」という行為が生まれ、そのことで信頼を作ってきたわたし達が、リアルコミュニケーションを恋しく思うのは自然なことです。わたし達は、制限されてはじめてその自然な「ふれる」ことの意味に向き合う機会を与えられたのだと思います。

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