「絆(きずな)」は「傷(きず)」を含んでいる
「情けは人のためならず」という言葉があります。この言葉は、「むやみに優しくするとその人のためにならない」と誤用されることがあります。本来の意味は「情け(=思いやり)は、巡り巡って自分のところへ還ってくる」ということです。
この本来の意味も気をつけないとならないのは、「見返りを期待して情けをかけるわけではない」ということです。見返りを期待して、誰かを助けたのだすると、どこか胡散臭くなります。行為としては利他的かもしれませんが、本当のところは利己的な動機があることになります。
とはいうものの、私たちの心の動きはそう単純ではありません。例えば、電車の中で席を譲る状況を思い浮かべてください。私は、ときに躊躇してしまいます。あの時の感覚、感情はなんなのでしょう。「いい人ぶっていると思われるのは嫌だな」と考えてしまいます。無心に「その人のため」とは思っていなくて、どちらかといえば、そこに発生してしまった責任に勝手に戸惑っています。何も言わずに、降りる用事のない駅で降りてしまったこともあります。
結局のところ、誰かと関りあうのが厄介なのだと思います。見ず知らずの人に席を譲ることで、その見ず知らずの人との関係が生まれます。その結果、誰からも非難されるような行為ではないのに、傷つけたり、傷ついたりするんじゃないかと思ってしまうのかもしれません。
「絆(きずな)」は「傷(きず)」を含んでいる
これは、NPO法人「抱樸(ほうぼく)」の奥田知志さんの言葉です。「抱樸」は、ホームレスや生活困窮状態など孤立する人を支援しています。
https://www.houboku.net/
奥田さんの講演をオンラインで聞く機会があり、ガツンと刺さったのが上の言葉です。抱樸の「樸」とは荒木のこと。荒木のような私たちが関係を持とうとすれば傷つけあう。それを避けることはできない。だから、そのまま受けいれて抱けばよい。そもそも、人が関わり合って、傷つかないなんてありえない。傷つくから絆(きずな)というのだ、ということでした。
その後、奥田さんの著書も読みました。以下のくだりが印象に残っています。
「お前さんと、今日これだけ、一時間も二時間もしゃべった挙句、明日君が自殺して見つかった。正直言って俺はその日から夜寝れんわ。僕は、それが嫌だ」と。「君は」こうすべきだとか、「人のいのちは」こうだ、とかじゃなくて、出会った僕が発することのできる「責任ある言葉」があるとすると「俺は嫌だ」「君が死ぬことは俺は嫌なんだ」って宣言し続けることだと思います。
出典:「逃げおくれた」伴走者 ;奥田知志(著)
路上では、希死念慮、つまり死にたいと言っている方に会うことがあります。彼らが死にたいのは、自分が存在している理由がないからです。奥田さんによれば、彼らは「ハウスレス」なのではなく「ホームレス」なのだ、と。つまり、誰かと関わる「ホーム」がないのだ、ということです。そんな彼らに空虚な「べき」論を伝えても響くわけがありません。こちらから、主体的な言葉をぶつけるしかないのです。「俺」は嫌なんだと伝えて、関りを持つと宣言し続けるしかないのです。
これもガツンと来てしまいました。発言だけを取り上げると「俺は嫌だ」なのですから、利己的な発言です。でも、胡散臭さがありません。まぎれもない本音です。この本音を言われることで、受け取った相手は厄介な気持ちを取り戻すのでしょう。「このおじさんのせいで死ぬかどうか迷わなくちゃならなくなった」という気持ちです。
ここで奥田さんがやっていることはまさに「情けは人のためならず」です。自分のために相手に働きかけています。見返りを期待しているのとも違います。理屈抜きで、放っておけないのです。私たちは、傷つけあわないことに過敏になってしまい、「放っておけない」という気持ちにふたをしてしまうことが増えているのかもしれません。
奥田さんの著書のサブタイトルは「分断された社会で人とつながる」です。社会を分断しようと思っている人はいないのだと思います。「傷つかずにいたい」という根源的に抱えてしまっている弱さを受け入れられるかどうかです。
ましてや、一方的な暴力を無神経に振るうことは、何の知恵もない愚かなことです。正しい勇気をもって、関りを持つ強さを持ちたいものです。