安らげる場所
人のためは、あらゆる欲求を満たす
最近、「安らぎ」に触れる機会が多くあった。そういえば、あまり意識したことのない心象風景だった。自分の「安らぎ」ってなんだろう? 考えるきっかけになった、茶道の本を読んでみた。
誰かを思ってつくる。惰性ではなく、丁寧につくる。追われるように日々を過ごしていると、ついつい忘れてしまう気持ちかもしれない。物事に真摯に向き合うためには、普段から、お茶を一杯飲むくらいの余裕を持っておくのが必要なのだろう。余裕だけじゃなくて、いただくのはもちろんのこと。
常に相手を思いやる心や姿勢は、直接的か間接的かわからないけれど、相手に伝わる。本書を読んだ限りでは、そこに相手に対して見返りの気持ちはないのだと思う。これってなかなか究極だなと。お茶を楽しむ人たちは、それぞれが何かを求めて来ているはずだから。
お茶を提供する亭主は、思いやりの心で人をもてなす。
人は何かを求めて来訪し、お茶を通して何かを得る。
亭主の真摯な気持ち+お茶×人と人が共有する空間=何か。となる。
それぞれが求める何かは違うのに、みんな何かを満たして帰って行く。
それってどういうこと? が素直な疑問だった。方程式じゃ表せない答えだ。だだだと書いているいまは言語化が難しい……。むむむ。
ノーサイド
お茶は、家庭でも職場でもない場を共有する空間だという。確かに、先日白丸湖でのお茶会に参加して実感した。自己が揺れているタイミングだったのもあって、無条件に承認し合える場を欲していたのもあるが、ぼくの心はあのとき、あたたかな安心感で満たされた。
能動的、共有、交流、承認。これらは人と人とが心通わせやすくなる定義のひとつみたいだ。そして、「安らぎ」の定義のひとつでもあるのだろう。というか、そう実感した。だだだと書いているいまは「定義のひとつ」とまでしか言えない……。むむむ。
俗に言うサードプレイスだと、趣味、サークル、宗教などもそれにあたるだろうか。年齢の違いはあっても、上司も部下も、師匠も弟子も、経験の多少も問わない。社会とは一線を画した「まぁほどほどに」的な空間がある。
あ、リバークリーンもそうか。誰もがボーダーレスに参加できる。リバークリーンは「参加」っていうほどじゃないか。
あえてボーダーレスって横文字にしたのは意味があるけど、回収はまだ別の機会に。
安心を探すのは不安だから
そもそも、なぜ人は「安らぎ」を求めるのだろう? そこに安らぎがあるから、ではない。きっと「安らぎ」よりも前に「安らげない」があったんじゃないかな。
社会の在り方や周囲の価値観に違和感を覚え、それぞれが落ち着く場所を探す旅に出た。行き着いた先が、各人の安らげる場所なのだろう。あなたも私も、きみもぼくも。
仮にそうだとすると、いま「安らぎ」を感じている人は、自分の心と真摯に向き合って、丁寧に人生を切り拓いてきた人だ。つまり、先述した茶道の心に通じる。あの日あの時あの場所で君に会えなかったらじゃないけど、あの空間に能動やポジティブといった信念を感じたのは、あたり前なのかもしれない。
仮に仮にそうだとすると、あの空間にいたぼく以外の人は、次どこへ行っても「安らげる場所」になると思う。物事に真摯に向き合い、相手を思いやり、丁寧に生きる習慣がついているから。
本は10ページでは売れない
マタイによる福音書。「安らぎ」の選択を後押ししてくれる1節だ。本書では確か、茶室に入る入口の狭さにも触れていた気がする。
ぼくは10年くらい前、あることをきっかけに聖書を読破した。実はキリスト教徒でも聖書を読破した人は少ない。彼ら彼女らは教会で「今日はこのページのペトロの手紙の……」と、数ページ読んで、歌って、交流して、また来週だ。
結論。読破しなくていい。文章が破綻していて、自由に解釈できてしまい、まったく頭に入ってこない。読む速度は100km/hで、理解する速度は2km/h。一気通読の必要がないから、あの分厚さなのだ。
いい文章の定義のひとつは、読む速度と理解する速度が寄り添っていること。
懐かしさと安らぎ
自分にも、「安らぎ」と聞いて浮かぶ景色がある。笑って悲しんで、やはり笑い合った人たちがいた。それはすべて過去だ。わびさびは、冬や夜を越えた美しさを説く。いまのぼくは、切ないけどそんな風に心は縛れない。