チヌア・アチェベ『生贄の卵』
夏の読書会で読みました。訳に当たっては、参加者の皆さんの文章を大いに参考にしております。
ジュリウス・オビは席に座って自分のタイプライターを見つめていた。太った部長は彼の上司で、机でいびきをかいていた。屋外では、門番が緑色の制服に身を包んで持ち場で居眠りをしていた。彼を責めることはできない。ここ一週間近く、客は一人も門を通っていない。空っぽのかごが巨大な計量器の上に乗っかっている。いくつかのヤシの実の核がさみしく埃に埋もれて、その機械の周りに置いてある。ハエたちだけが大勢で群がって飛び続けていた。
ジュリウスは窓に近寄ると、そこからはニジェール川の岸辺の大きな市場を一望することができた。この市場はいまだにンコウォと呼ばれているけれども、かなり以前からエケ、オリェ、そしてアフォの日にまで開かれるようになり、それは文明化の到来と、街のヤシ油の商港としての成長と時を同じくしていた。このような浸食にもかかわらず、しかしながら、市場が盛況なのは従来のンコウォの日で、それは太古の昔からその市場を司ってきた女神が今もなお彼女の日にだけは魔法をかけていたからだ―欲だらけの者共で溢れんばかりになるのだ、と。彼女は老婆の姿で市場の中心に、ちょうど鶏が鳴きだす前に現れると言われており、魔法の扇を地上の四つの方向に―彼女の正面、後方、右と左―に振って、男も女も遠く離れた場所から市場まで引き寄せるらしい。そして彼らはその土地ごとの名産品を持ってくるのだ―ヤシ油、穀物類、コーラの実、キャッサバ、敷物、かごに陶器の壺まで、そして色鮮やかな反物、魚の燻製、鉄製の鍋や皿などを家に持って帰るのだった。これは森林に住む人々の話だ。この大いなる河川の傍に暮らす残りの世界の半分の人々もまた川を下り―カヌーに乗って、ヤムイモや魚を持ってきた。時には巨大なカヌーに十何人という人々が乗ってやって来ることもあれば、時には一匹狼の漁師が妻と小さな船でアナンバラの急流に乗ってやって来ることもあった。彼らは岸にカヌーを停泊させて、十分に交渉したうえで、彼らの魚を売った。その後、その女性は急な川岸を歩いて登り、市場の中心まで行って塩と油と、売り上げが好調だった場合は、一反の布さえも買った。そして家で待っている子供たちのために彼女はイガラ族の女性たちが作った豆ケーキやマイマイを買った。夕暮れが近づくと、夫婦は櫂を再び手に取って、漕ぎながら去っていく。水は夕焼けにきらめき、彼らを乗せたカヌーはどんどん小さくなって遠ざかり、ついにそれはまさしく水面に浮かぶ暗い三日月になって、二つの人影がその上で前と後ろにゆっくりと揺れているのだった。当時のウムルは交易の要所であり、そこには森に暮らすイボ族と呼ばれる人々と、イボ族がオルと呼ぶ異郷の川の住人達が集まり、その住人達の向こうには世界が果てしなく広がっていた。
ジュリウス・オビはウムルの出身ではなかった。彼は他の無数の人々と同じく、内陸のとある奥地の村から来たのだった。キリスト教の学校に六年間通った後に、彼はウムルに来て事務員として働き始めたのは、非常に力のあるヨーロッパの貿易会社のオフィスで、その会社はヤシの実を独自の価格で買い取っていて、布類や金物類も独自の価格で買い取っていた。オフィスはあの有名な市場の傍に位置していたため、最初の二、三週間でジュリウスは、その場所の大騒ぎに飲み込まれながら、仕事を身に付けなければならなかった。時々、部長が離席しているときには、彼は窓に近づいて広大なアリ塚の営みを見下ろした。この人々のほとんどが昨日はここにいなかった。彼は思った、それでも昨日の市場は今日と同じくらい満杯だった。きっとこの世界にはたくさんの、たくさんの人々がいて、来る日も来る日もこんなふうに市場を埋め尽くしてしまうのだ。もちろんこの大きな市場に来る人々の全員が実在の人間ではないという話も聞く。ジャネットのお母さんの、マ―は、たしかそんなことを言っていたな。
「あなたも美しく若い娘が人ごみの中をどうにか通り抜けようとしているのを見かけるでしょ。そのうちの何人かはあなたや私のような人間ではなく、マミー・ウォタという、河の深いところに街がある人々なのだよ」彼女は言った。「見分けるのは簡単さ。彼らは美しいのだが、その美しさはあまりにも完璧で、冷たすぎるから。目じりで彼女を捉えたと思って、瞬きをして目を凝らしても、とっくに彼女は人混みの中に消えているから」
ジュリウスはこのようなことを考えながら、今では窓辺に立って、静かな、誰もいない市場を見下ろしていた。あの大きな騒々しい市場がこのように鎮圧されてしまうなんて、一体誰が信じただろうか? しかしそれはキチキパの力、天然痘の猛威の化身の仕業だった。彼だけがあの人々を一人残らず追い払い、その市場をハエたちに取っておくことができたのだ。ウムルが小さい町だった頃、一定の年齢層の人々がンコウォの日はいつも市場の区画を掃除していた。しかし発展によってその場所は騒がしく、だらしなく広がり、混雑した汚らしい河川港に一変してしまい、その場所は異邦人の数が土地っ子たちの数をはるかに超えた誰のものでもない地域になり、彼らは自分たちの祈りがこのように大きく間違って聞き届けられたことに対して、ただ頭を振るしかなかった。その原因は彼らが事実として―誰が彼らを責めることができよう―彼らの町の発展と繁栄を願っていたからだ。そして現に町は発展した。しかしいい発展もあれば悪い発展もある。腹が食べ物と飲み物で膨らまなくなれば、残るのは忌まわしいの病気の可能性であり、それを直すには、その患者を死にかけの状態であっても家から追い払うしかない。
そのウムルに訪れる異邦人たちは交易と金のために来ていたのであって、果たすべき義務を求めてではない。なぜならそのような務めは、彼らの本当の故郷である村の家に帰ればたくさんあったからだ。
そしてこれでもまだ十分ではないかのように、ウムルの大地が生んだ若き息子、娘たちは学校や教会に後押しされて、それら来訪者たちと変わらない様子で振舞うのだった。彼らは古来の仕事を怠り、そのお祭り騒ぎばかりを続けていた。
そんな有様に町が陥った時に、キチキパが訪れてその状況を見て、捧げものを要求した。その供物は住民が大地の神々にささげるべきものだった。彼は自分が人々に与える恐怖に揺るぎない確信を持ってやって来た。彼は邪悪な神であり、それを誇っていた。彼を怒らせないために、彼が殺す人々は殺されたのではなく、飾り付けられたとされた。誰も彼らのために泣く勇気はなかった。彼は家々や村々の間の人間達の往来に終焉をもたらした。彼らは言った。「キチキパがあの村にいる」するとすぐさまそこは隣村に関係を絶たれた。
ジュリウスがもの悲しく不安だったのは、ジャネットと最後に会ってから一週間近くが経とうとしていたからで、その娘と彼は結婚するつもりだった。マ―がとてもやさしく彼に説明したのは、それ以上彼は自分たちに会いに来るべきではない、「この状況が、エホバの力によって鎮まるまでは」ということだった(マーはとても敬虔なキリスト教への改宗者で、彼女が唯一の娘の相手として彼を認めたたった一つの理由は、英国教会伝道協会の教会の聖歌隊で彼が歌っていたからだ)。
「部屋でじっとしていなさい」彼女は静かな声でいった。キチキパがあらゆる騒音や賑やかさを厳しく禁じていたからだ。「通りで誰に出くわすかなんてわかったものじゃないのだから。あそこの家はやられてしまったよ」彼女はより声を静めて、こっそりと指を指したのは通りの向こう側にある家で、その玄関は黄色いヤシの葉で封鎖されていた。「彼はその家族の中の一人を飾り付けて、残りの家族は今日大きな政府のトラックに乗せられて連れていかれたんだ」
ジャネットはジュリウスと少しの道を歩いて、立ち止まった。それにあわせて彼も止まった。彼らは何も話すことはなかったが、まだ名残惜しかった。それから彼女はおやすみと言って、彼もおやすみを言った。そして彼らのした握手は、とても奇妙で、まるで夜のお別れが何か馴染みのない、深刻なもののようだった。
彼はまっすぐ家に帰らなかった。なぜなら彼はどうしても、独りであろうと、この奇妙なお別れにしがみついていたかったからだ。教育を受けていたので、彼は出会うかもしれない何者かを恐れなかったし、だから彼は川岸に行って、ただひたすらそこを行ったり来たりしていた。彼はそこに長時間いたのだろう。夜の仮面の木製の太鼓が鳴り響くときにもまだそこにいたのだ。彼は半分歩き、半分走りながら、すぐさま家へ駆けだした。なぜなら夜の仮面は迷信の類ではなく、現実のことだからだ。彼らが自分たちの大騒ぎに夜を選ぶのは、蝙蝠のそれと同様に、彼らの醜悪さは凄まじいものだったからだ。
家路に急ぐ途中で彼は何かを踏みつけて、それは壊れてわずかに液体が飛び散った。彼は立ち止まって小道を覗き込んだ。月はまだ昇り切っていなかったが、夜空にはわずかな光があって、そのことからじきに懸かることがわかった。この薄明の中で彼は自分が踏み付けたのが供物として捧げられた卵であることが分かった。不幸によって苦しんだ誰かが夕闇の中の十字路に捧げ物を持ってきたのだ。そして彼はそれを踏みつぶした。その周りには普通のヤシの若葉が置いてあった。しかしジュリウスはそれを違うふうに、怖ろしい芸術家が仕事をしている建物であるかのように見えた。彼は足の裏を砂道で拭きとってから急いで逃げたが、彼の心には別の漠然とした心配が浮かんできた。しかし急いでも手遅れだった。足の速い仮面の一人がすでに出て来ていた。おそらく彼は月の恐ろしい脅迫によって急がざるを得なかったのだろう。その声は静かな夜の大気に鋭く明瞭に響き渡り、まるで燃える剣のようだった。それはまだ遠く離れているけれども、ジュリウスは距離がそれの前では無いも同然だということを知っていた。だから彼は道路脇にあるココヤム畑まで一直線に向かい、飛び込んで腹ばいになったのは大きな葉っぱで覆いになったところだった。彼はどうにか間に合うとすぐに、ガラガラと音を立てる精霊の杖や、つんざくようなよどみない難解な呪文を耳にした。彼は全身が震えた。その騒音は彼の方に襲い掛かって来て、彼の顔は湿った地面に押しつぶされんばかりだった。そして次に足音が聞こえた。それはまるで二十人の悪人が一斉に走っているようだった。冷や汗が全身に噴き出し、彼は追いつめられて、もう少しで立ち上がって逃げ出しそうになった。幸運にも彼は身じろぎもせず持ちこたえた……少しの間もなくその空と大地の大騒ぎ―雷鳴や激しい雨、地震に洪水―は通り過ぎて、道の反対の遠くの方に消えた。
その翌朝の事務所で、土地っ子である部長が苦々しく話したのは、昨晩の強情な若者たちによるキチキパに対する挑発行為についてで、彼らはやかましく足の速い仮面の一人を走らせて、彼らの年長者たちに反抗したが、年長者たちはキチキパの怒りを買うに違いないと分かっていて、それから……
困ったことに、その反抗的な若者たちはいまだに身をもってキチキパの力を経験したことがなかった。彼らはそれを話でしか聞いたことがなかったのだ。しかし、すぐに彼らは学ぶことになるだろう。
ジュリウスは窓辺に立って人のいない市場を見下ろしながら、再びあの夜の恐怖を生きて経験していた。わずか一週間前の出来事なのに、すでにそれは別の人生のように、広大な空虚によって現在と隔てられたように感じられた。この空所は日を追うごとに深くなっていった。こちら側にはジュリウスが立っていて、あちら側ではマーとジャネットがあの恐ろしい芸術家に飾りを付けられていた。