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選択肢

今も昔も、子どもは「なぜ学校に行くの?」「なぜ勉強しなきゃいけないの?」という疑問をぶつけてくる。

「それはね、人生の選択肢を増やすためだよ」
そんな模範解答があったような気がする。

選択肢が増えること、それは自由を手に入れることだ。

わたしたちが子どもの頃は、学校には行くもので、行かないという選択肢は、ほぼなかった。
勤労の義務と同じように、学校に行くことは、子どもの仕事だと思っていた。
今は学校に行かないという選択肢もある。
学校に行かなくても勉強する手段はいろいろある。
それでも、「学校でしか学べないことがあるよ」といいたいけれど、そんな単純な話ではないから、わたしは敢えていわない。

今は各自で優先順位を決めて、選び取っていく自由な時代なのだと思う。
しかし、あまりに自由過ぎると、どの選択肢を選べばいいのか迷ってしまうこともある。
選んだ結果、責任を取るのは自分自身だ。

新聞でこんな記事を読んだ。(日本経済新聞2024.12.3 夕刊「育む」)

学校に行く意味」伝えよう

社会の「泳ぎ方」学ぶ場所 

沼田晶弘さん(東京学芸大付属世田谷小学校教諭)が「学校に行く意味」をどう伝えたら良いか、をテーマに書かれている。
「なるほど、こんな風に考えるのもいいな」と共感したので一部引用してご紹介します。

  大前提として、保護者には子どもに普通教育を受けさせる義務がある。憲法でそう定められていることをまずは子どもに説明すべきだろう。

 「学校はプールで社会は海」(中略)安全な場所で一生懸命もがくことで、泳ぎ方を身につけ、社会という海に出る準備ができる。

   海は気を抜けば流されるし、海水はしょっぱい。プールよりも環境は断然厳しい。それでも頑張って泳ぐと、違う国にたどり着き、いろんな文化に触れることができる。こんな将来を見据えて、一人ではなく、プールでみんなで練習しよう。

  社会に出たら、あちこちぶつかってばかりだ。だから安全な学校にいるうちに、いろんな人とぶつかり稽古をして、相手を知り、作戦を考える。これが学校というところ。   

学校にはいろいろな生徒、先生がいる。
社会の縮図だ。
しかし、思う存分ぶつかり稽古をするためには、学校は安心、安全な場所であることが大前提だ。


平和で豊かになった今の日本で、他人と議論したり、力を合わせて問題を解決したり、譲り合ったり、辛抱したりする機会は学校以外には、なかなかないと思う。
わたし自身、学生時代の楽しい思い出など数えるほどしかないけれど、その思い出が今でも糧になり、宝物になっている。

不得意なこと、苦手な人をスルッと回避する術も学んだ。
何より、教育を受ける権利を放棄するのは勿体ないと思ってしまう。

選択肢というタイトルから逸れてしまったが、逸れたついでにもうひとつ。

4歳の孫は夢中で遊んでいると、ついつい「ヤバッ」といってしまう。
母親から「ヤバい」は固く禁じられているので、その都度叱られる。
「じゃ、なんていえばいいんだよーー!」
と、癇癪を起こしている。

ボキャブラリーが豊富になれば、表現の選択肢も増えるんじゃないかな。