【創作について】どんな名人も魚のいない釣り堀では釣れない
仕事での依頼でない場合、書き手は基本的にジャンルやテーマなどは好きに書くことができる。逆に言えば、どこにその作品をアピールしていくかが求められます。
しかし、その釣り堀(マーケット)に魚(観客)がいるか? そこは冷静に見極める必要もあります。理由は簡単。どんな素晴らしい名人であっても、魚がいない釣り堀では釣れないからだ。
例えていうなら、雨の降らない国では雨傘を買う人はいない。しかし、日傘に特化した者なら売れる。ニーズがないところで努力しても日の目を見るのは難しいのです。
なろう系という、もはや二匹目どころではない釣り堀
なろう系と言うと、異世界転生やファンタジー作品などが主流です。(他の作品もありますが)ファンという魚だけでなく、出版社というヌシまでいます。大きく育った優秀な釣り堀です。ここの主流が好きな人には、すごく魅力的です。
さすがになろう系でシニア向け作品をやる人はいないでしょう。しかし、邦画などでは少し前からサユリストに代表されるシニア向け層の映画がそこそこ作られています。もちろん、太った魚(優良な観客)がいるからです。
投資して回収ができるくらいに入る。これは邦画が中途半端なマーケットの大きさがあるゆえに、その中でビジネスが成り立ってしまう特有の事情もあるとは思います。
釣り人(書き手)は魚(観客)を研究する
作品を書くにおいては、書き手は観客視点を自分の中にもっておくことも必要です。「敵を知り、己を知れば百戦危うべからず」とあるように、相手を知ることで作品の中で時に寄り添い、時に裏切ることも可能だからです。
能楽の世阿弥さんが「離見の見にて見るところはすなわち、見所同心の見なり」なる言葉を残されています。これは演技論ですが、演じる自分とそれを見る観客たちを俯瞰して見ることで、その作品がよく分かるという意味です。
演者と観客。作家と読者。切っても切り離せないこの二つを、冷静に見る。そのためには普段から、自分の作品が観客にどう見えているかを考える時間も必要でしょう。
クーリングが充分できたころに、客観的な視点で作品を見ると意外な部分が見えることも多いです。リライトする際には充分に時間をかけるといいですね。