散歩の途中 19 放哉が両手で受けたのはふかし芋だった
障子あけて置く 海も 暮れ切る
咳をしても一人
枯れ枝ほきほき折るによし
入れものが無い両手でうける
小豆島に尾崎放哉記念館を訪ねた。放哉は大正15(1926)年4月7日、記念館になっている小豆島霊場58番札所、西光寺奥の院「南郷庵」で没した。
上記の句はいずれも亡くなる年の作である。南郷庵は「みなんごあん」と地元の人はいうのだが、札所の奥の院で普段は遍路も立ち寄らない寂しい庵だった。小豆島に流れ着いた放哉は、この庵を終のすみかと見立てて病床にあった。春になれば遍路が訪れ、庵にもいかばかりの実入りがあると暖かくなるのを待ちわびた。
山本ヨシヱさん(85)は、放哉を実際に知っている最後の人物である。小学校の5年生、12歳だったヨシヱさんにとっては、放哉は高名な自由律俳人などではなく、酒臭い、少々風変わりな庵坊(あんぼ)さんであった。
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南郷庵の前がおじの家で石屋をしていた。岡田元次郎といい庵坊さんを最後によく面倒みた人だった。私は学校から帰るとよくおじの家に遊びに行った。そのころの庵は、右側が麦と芋の畠、左手は墓地でした。庵は一段高く、小さな窓からは塩田、その向こうには海が見えてました。墓場の花ガラを拾い集めては、それをたきぎにして、湯を沸かしていました。
石工のおじの家にはよく来ていました。庵坊さんは行くところはどこもないらしく、石碑、石塔、墓を削る作業を厭きもせずずっと見つめていました。昼ひなかから日暮れまで来ていたというから、それはしょっちゅうだったんでしょう。
おじも酒好きで酒8分、仕事2分の人でした。いつも酒臭い庵坊さんと気が合ったのかも知れません。おじさんに酒を御馳走になると、いつも「なんの返しもあできん」言うて、腰のあたりから筆を手品のように取り出して、紙にさらさら書き留めました。大人になって思えばあれは矢立てで、いつも持っていたんでしょう。おばさんは目が悪くて庵坊さんがくれた書き物を、くるくる巻いては仏壇のわきに突っ込んでいました。たくさんの句を書き留めたのでしょうがいまは一枚も残ってはいません。
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「入れものが無い両手で受ける」は、両手で受けたのはふかし芋でした。あの人は気位が高く、お遍路さんからものをもらうことなんて絶対できんお人でした。
おばさんが庵坊さんに「あんた酒ばあ飲みよったらあかんぞ」言うて、握り飯やふかし芋を手渡した。庵坊さんは「欲しゅうない、欲しゅうない」言うた。目が悪いんで「どこにおるんぞ」言うて渡しました。アツアツじゃから皿に盛ってあげたら思うたが、入れ物は貸さんかった。いま思えば、咳がひどく結核がうつると思うたんでしょう。
庵坊さんが小豆島にいた8カ月足らずのうち、私が知っているのは初めの3カ月だけ。庵坊さんに近づくとおじさんが「あっちに行け」とひどく叱りました。病気のことを心配したのでしょう。
話したこともよく覚えています。「庵坊さん、いつも何を書きよるんか」と聞いたら「ねえちゃんは書き物が好きか」と言って「ええか、思うたこと、感動したことをなんでも五、七、五にそのまま書いたらええ」と言いました。私は父親が40歳で死んだため、その年頃だった庵坊さんに父親の姿をだぶらせていたのかもしれません。
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庵坊さんが死んだのは、おじさんが本町の私の家の近所の大工に棺を頼みに来たんで知りました。身寄りが無いんで、湯灌して葬式を出したとのことでした。
庵坊さんが有名な俳人だと知ったのは、つい最近7、8年前のことです。
南郷庵がなにやら記念館になるいうんで、聞いてみると庵坊さんのことでした。それは驚きました。島ではだれも知らんかったでしょう。だれも薄汚い坊さんくらいにしか思っとりませんでした。 =1996・9聞き書き=