こさきたけし

KBARマスター。KBARは港町2丁目の埠頭の倉庫街の半地下にあります。マスターはひがな軽い小説を読み 草野球を観戦し、いろんな路地裏を歩いています。うろついているのでなかなかつかまりませんが、このごろよくフードコートでみかけることがあります。声をかけてやってください。

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KBARマスター。KBARは港町2丁目の埠頭の倉庫街の半地下にあります。マスターはひがな軽い小説を読み 草野球を観戦し、いろんな路地裏を歩いています。うろついているのでなかなかつかまりませんが、このごろよくフードコートでみかけることがあります。声をかけてやってください。

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一期一絵 洲崎へ

 行き詰まると房総半島をめざす。なぜかはわからない。二度、三度行くうちに癖になった。そのころは総武線で千葉に向かう。木更津でも犬吠岬でもいいのだが。その日は、やって来た電車が内房線で行きついたのは館山である。  1976(昭和51)年の春のこと。館山駅からバスで洲崎まで行った。降りてみたが何もない。丘の上に白い灯台があり、行ってみた。  バス停から海側の小道に入り、大きく回り込んだら酒屋の小店があり、脇に石段があった。数軒の家と畑を囲む木々の間をくぐり抜けると、すぐ海だっ

    • 一期一絵 志賀直哉の見た百貫島の灯

       六時になると上の千光寺で刻の鐘をつく。ごーんとなると直ぐゴーンと反響が一つ、又一つ、又一つ、それが遠くから帰ってくる。其頃から昼間は向島の山と山との間に一寸頭を見せている百貫島の燈台が光り出す。 (「暗夜行路」より) ◇   ◇   ◇  志賀直哉が尾道に住んだのは1912(大正元)年11月から翌年7月までのわずか1年足らずだった。現在、文学資料室になっている東土堂町の旧居は三軒長屋で、尾道水道を見下ろす坂道の途中である。  長屋の一番東側に居住し、「暗夜行路」の想を

      • 一期一絵 映画「潮騒」にみる灯台長の描かれ方 

         三島由紀夫の小説「潮騒」は1954(昭和29)年に発表されて以来、これまでに5回映画化された。1作目は同年、谷口千吉監督により、青山京子、久保明が主役である。これほどリメイク作が多いのは川端康成の「伊豆の踊子」と双璧である。5作品は別表に紹介した。  舞台は伊勢湾の入り口、伊良湖岬と志摩半島の真ん中に浮かぶ神島(小説では歌島)。ここでは物語で重要な役割を担う島の灯台長にスポットを当てたい。離島における灯台長とその家族がどう描かれているだろう。  ①加東大介②清水将夫③桑

        • 一期一絵 大久野島灯台に関する聞き書き 

           中山加代子さん=1915(大正4)年生まれ=に聞いた。  父は倉田伊代吉といいます。昭和12年、勝浦で灯台守を退官しました。大久野島灯台の前は伊江島、その前は沖縄で、伊江島の時、小学校1年でした。尋常小学校5年の時、忠海に来ました。島に官舎があったのですが、最初は本土側の忠海に家を借りていました。兵器製造所が出来るというところでした。小学校、忠海高女に通いましたが、途中から島の灯台のそばにある官舎(退息所)に住みました。  本土から兵器製造所にたくさんの工員さんが船で通

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        記事

          一期一絵 劉生の坂道とボクの宝荘

             宝荘という粗末な木造二階建てのアパートは東京都渋谷区代々木4丁目にあった。ボクは70年代半ばの5年近くを、ここで暮らした。  小田急参宮橋から歩いて5分。代々木は坂道の町である。西参道と山手通り(環6)がそれぞれ坂の頂上で、二つに挟まれた参宮橋の商店街や劇団四季の稽古場、わが宝荘などは谷の底の部分に位置していた。  京王線初台駅までは坂道を上り約8分。国電代々木駅までは坂道を上り、そして下りきったところで小田急のガードをくぐり、また代々木ゼミの前までの緩やかな坂道

          一期一絵 劉生の坂道とボクの宝荘

          散歩の途中 18 キャッチャーやります  

           取り残された細長い土地はマーケットの壁越しで反対側は今はビジネスホテルになっている。  この土地はうちの祖父(じい)さんがやってた酒屋の空き瓶のケースを積み上げていた場所だ。祖父さんは五、六年前まで元気に商売をやっていたが、同じ通りに安売りの酒量販店が駐車場付きでオープンして客足がぱたりと止まり、古くからの馴染み客への配達だけで細々と生き延びていた。  老舗といってもたかが酒の小売店である。いまどき食っていけんわな。そんなわけで親父はあとを継がずサラリーマンになって母親と各

          散歩の途中 18 キャッチャーやります  

          一期一絵 映画館がボクの教室だった 

             自慢にもならないのだが、ボクは昭和42年から44、45年の日本映画はほとんど観ている。厳密にいうと高校時代の3年間に呉の町で封切られた映画といったほうがいい。  わが家はいまは中通りに名を変えたが、当時の堺川通りにあった。高校は家から15分の高台にあったが、入学と同時に肌が合わず、坂道を上るあたりでめまいを覚えた。成績順がすべてで、肌が合わないというより完全に落ちこぼれていたのである。  1年1学期で授業についていけず、居心地が悪かった。毎朝出席をとると3時限目あ

          一期一絵 映画館がボクの教室だった 

          散歩の途中 19 放哉が両手で受けたのはふかし芋だった

          障子あけて置く 海も 暮れ切る 咳をしても一人 枯れ枝ほきほき折るによし 入れものが無い両手でうける  小豆島に尾崎放哉記念館を訪ねた。放哉は大正15(1926)年4月7日、記念館になっている小豆島霊場58番札所、西光寺奥の院「南郷庵」で没した。  上記の句はいずれも亡くなる年の作である。南郷庵は「みなんごあん」と地元の人はいうのだが、札所の奥の院で普段は遍路も立ち寄らない寂しい庵だった。小豆島に流れ着いた放哉は、この庵を終のすみかと見立てて病床にあった。春になれば

          散歩の途中 19 放哉が両手で受けたのはふかし芋だった

          一期一絵 理髪店 1991

           南(ナㇺ)さんが山を下りてくるのをみんな待っている。いつのことになるかは分からない。お天気次第かもしれない。  いつもは奥山で炭を焼いている。県境の林道からさらに分け入った森の中に小屋掛けし、半年、一年がかりで奥山の木を切り倒し、炭を焼く。おそらくそのころ西中国山地で唯一の炭焼きだったのだろう。  山主にしても誰も手を入れない放りっぱなしの森に手を入れてくれるのはありがたいことだ。山を下りた時に、良質の炭を二抱え屋敷の軒下に律儀に置いていくのが南さんのいつものあいさつだ

          一期一絵 理髪店 1991

          一期一絵 SAV 1977   

           SAVで待ってます。アパートの扉に書きなぐったメモが挟みこんであった。それだけ。モリカゲさんは通りがかりにいつもこうだ。  会うのは渋谷の道玄坂を登り、百軒店の坂道の途中にあったジャズ喫茶SAVだった。いまは風俗店やラブホテルに至る坂道だがかつてはジャズを聴かせる名店が多かった。恋文横丁、クラシックのライオン、カレーのムルギーなど多彩な雑多な味わいのある界隈だった。  SAVの店の重い扉を開くと重低音の音楽が足元から響き、狭い階段をあがると一番奥の壁下に沈むこむようにい

          一期一絵 SAV 1977   

          一期一絵 麦酒工場1976

           国電山手線の恵比寿駅のホームを出て品川方面に向かうと左側にビール工場が見えてくる。サッポロビールの文字が躍る。  この電車で学校に通ったので毎朝の車窓の見慣れた風景だった。コクのあるエビスビールはサッポロビールの銘柄のひとつで、恵比寿の地名にちなんでいたのかと思ったら、恵比寿麦酒が先で恵比寿の地名になったらしい。  恵比寿の駅は地下鉄日比谷線の駅と交差しており、頻繁に乗り降りしたが、さほど街を歩いた記憶はない。70年代は今のような若者が楽しむような場所ではなくどちらかという

          一期一絵 麦酒工場1976

          一期一絵 新宿場外1976

           新宿場外馬券売り場は新宿駅の南口を出る。今はバスタの裏手あたり。随分と小ぎれいな一角になった。あのころは薄汚くなにしろ場末感がハンパないエリアだった。  南口から甲州街道の石段を下りてから福盛屋などバラックの飲み屋、公衆便所のある角を右手に高架をくぐり抜ける。馬券はネット投票のない時代で、レース直前は殺気立ったオヤジたちが予想紙と千円札を握りしめ列を作る。  1976年12月。第21回有馬記念はトウショーボーイが追いすがるテンポイントを振りきりゴールした。競馬にのめり込ん

          一期一絵 新宿場外1976

          一期一絵 工場裏 1975

           京王線の初台駅は新宿を出て最初の駅でこのあたりはまだ地下を走る。たしか三つ目の幡ケ谷あたりで地上に出たように思う。  この初台近くに住んでいた。もう半世紀も前のことで記憶も曖昧だ。いちばん最寄りの駅は小田急参宮橋だったが、悪い友だちが京王線沿いにポツポツいたのでこの線をよく利用した。  初台、幡ケ谷、笹塚と続くのだが、笹塚くらいまではふつうに歩いていた。  この「工場裏」は1975年とある。歩く途中にこの工場はあった。結構、マジメに絵に励んでいたころだ。  笹塚にある渋谷区

          一期一絵 工場裏 1975

          散歩の途中 17 紫陽花

           「ただいま!」の声の様子で、弘子さんは娘のはるかちゃんの学校での出来事が手にとるように分かる。  玄関にランドセルを放り出すと、クラスであったこと、友だちの男の子と話したこと、先生に褒められたことを一気にしゃべってそれからおやつだ。  そんなはるかちゃんがランドセルを背負ったまま玄関に座り込んだ。「ただいま」の声のトーンがいつになく沈んでいた。玄関に出てみると、庭先に咲いた満開のアジサイをぼんやり見詰めていた。  そういえば今朝、出掛けに紫と薄青の大輪を花束にして登校した。

          散歩の途中 17 紫陽花

          散歩の途中 16 空蝉  

           カラスの賢さを見せつけられたことがある。県北のT村があまりのカラス被害に業を煮やし、駆除許可を得て役場と猟友会が捕獲作戦に出た。捕獲といっても猟銃で撃つのであるが、猟友会員の赤い帽子を見るとカラスは一斉に隣の谷に移動するのである。  無線連絡で「あっちの谷に回ったど」と入る。猟友会が移動すると、上空からあざ笑うように元の集落に戻りごみ漁りや畑に舞いおりる。一日中、それを繰り返して結局は駆除をあきらめた。  司令塔のカラスが一羽いて、号令ひとつで群れはほどほどの距離をとりなが

          散歩の途中 16 空蝉  

          散歩の途中 15 チャンポン   

           ヘルパーさんと呼ばれているがタカシには何の資格もない。いわゆる世の中でいわれているプータローだ。高校中退、就労意欲なし、向上心なし、なにもなし。  免許はいちおう持っている。原付免許。ペーパー二回落ちてやっと受かった。唯一、自分を証明する紙といえばこれだけ。  「タカシくん、水曜日は付きおうてよ。いつものコース」。リネン交換のワゴンを押してエレベーター待ってると、ヤマザキさんが廊下の向こうから手を振りながら叫んだ。  「わかったァ」タカシはもう水曜か、とヤマザキさんに指で○

          散歩の途中 15 チャンポン