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1,000文字のアートレビュー① 『塩田千春展:魂がふるえる』

(noteで「#1,000文字のアートレビュー」というのをやってみることにした。COMEMOではビジネスのことを書くので、こちらは完全に趣味)

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僕がはじめて塩田千春の作品をみたのは、2001年の横浜トリエンナーレだ。

天井から吊るされた、10mはある巨大なワンピースの泥まみれの表面を、ひたひたと雨だれのような音を立てて水が流れつづける。『皮膚からの記憶』と題されたその作品は、古代の神話のような神秘性と、原始の身体を呼び起こすような土臭さをにおわせていた。

以来、「塩田千春」という名は僕の記憶に刻まれて、彼女の作品はずっと、僕の身体の、肺と胃の間あたり、みぞおちの上くらいのところを、遠いこだまのように、激しくはないが深遠な響きをもって打ち続けてきた。自分の一番きらいな、しかし一番僕らしい部分を。

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絆す 糸/血

塩田千春といえば誰もが思い出すのが「糸」、あの赤い糸だろう。それは彼女が世界とつながるための紐帯であり、時に彼女の血が流れる血管でもある。その絆(ほだ)す欲動は、重なるうちに結び目を増やし絡み合い、彼女をこの世に縛る呪縛になる。そしてさらに皮肉なことにそれはやがて、網となって空虚を内包し始めてしまう。


包む 繭/洞

空間に蜘蛛の巣のように張り巡らされた糸たちは、対象/オブジェにはならず、あたかも毛細血管の造影のように靄がかって、空虚さとともに僕らを繭の中に閉じ込めようとする。自ら掘った洞窟に入る彼女のように、僕らは、彼女の毛細血管に、そのぽっかりとしたからだの中に包まれる

纏う 皮膚/被服

繭はさらに密になり、いつしかそれは皮膚になる。人は誰でも、「死にゆく細胞」たる皮膚を纏っている。纏うというのが第三の彼女のテーマではないか。洗っても洗っても纏わりつく泥、纏われるべき衣服。しかしそこには衣服だけがあり、やはりその主人はそこにはいない。

におう 記憶/塵

乾いた泥はやがて風にさらされ、塵となって霧のように空間を漂う。焦げたピアノや椅子が古い煤の粒子を、甘く、追憶と哀しみのにおいをたたえている。宇宙をのぞき込むような黒糸の虚空の中で、においだけが記憶として立ち込める。

流れる 旅/Seele

「ゆく川の流れは絶えずして」「月日は百代の過客」だという。その流れは僕らをあてもない旅に押し出す。僕らは、塩田千春の”からだ”をとおり、その中ですこしの間ふるえ、またそれぞれの場所へと流れ出していく。(留めおきたいと彼女がどれだけ願おうとも)その日彼女の中にふるえたいくつかの《魂Seele》は、その不在だけをあとに残し、あのうつろ舟にのって、またさだめなく流れていくのだ。

(2019年6月29日 『塩田千春展:魂がふるえる』)

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