『建築家のドローイングにみる<建築>の変容 −−ドローイングの古典、近代、ポストモダン』 11

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 3-2-3. 抽象的空間表象

 建築的なドローイングにおける軸測図の近代的な使用という意味では、ロシアの構成主義者エル・リシツキーの例はより決定的である。彼はドゥースブルフとも交流があり抽象的構成にも馴染んでいたが、とりわけマレーヴィチのシュプレマティスムの影響を受けて軸測図への興味を強くしたらしく、この図法でのドローイングを多く残している。例えば、しばしば彼の代表作として取り上げられる『雲の鐙』と名付けられた1924年の計画があるが、この案では透視図だけではなく軸測図のドローイングも制作され残されている(図17, 18)。

同一のプランから彼がわざわざ透視図と軸測図の両方を描いたという事実は、リシツキーが、軸測図の空間表象の独自性に自覚的であったことを想像させる。この二枚の図を並べてみると、設計上は同じ案であっても透視図と軸測図とでは印象がいかに違ったものとなるかということを実感させられる。仰ぎ見るような視角によって、雲をつく高さの印象を強く与える透視図に対して、軸測図では整然とした直角的な構成が目を引く。リシツキーもまた空間の構成(コンポジション)に多大な関心を寄せており、軸測図によってこの構成が明確に表れることを好んだに違いないが、彼が軸測図を用いる理由はここのみにあったのではなかったようである。
ボアは軸測図の空間表象について次のように分析している。

「アクソノメトリック・スペースは、非=局所的で、多形的である−−それは「抽象的」である。」50*

 この「非-局所的atopical」なる形容詞は、軸測図の中に表象される「アクソノメトリック・スペース」が遠近法的空間表象と違って消失点を持たず、その空間性において特定の位置を前提したものではない、ということに対する指摘である。リシツキー自身はこのようなアクソノメトリックの空間を「シュプレマティスムの空間」あるいは「非合理的な[あるいは無理数的な]空間」と呼んでいる。

「シュプレマティスムは、遠近法の場合の有限な視覚のピラミッドの頂点を無限へと移し替えた。・・・・シュプレマティスムの空間は、画面から前方へという方向ででも、奥行きの方向ででも形作られる。画面を0とすれば、奥行きの方向を−(負)、前方への方向を+(正)あるいはその反対とすることが出来る。このようにして、シュプレマティスムは、遠近法による三次元空間のイリュージョンを画面から一掃し、それにかえて、前方へも後方へも無限に延長しうる非合理的な空間の最高のイリュージョンを作りだしたのである。」51*

 ここで表明されているのが遠近法的な空間表象に対する批判であることは明らかである。リシツキーはこの図法の使用によって、遠近法的な「有限な視覚」に対して<無限な空間>を提示しているのである。遠近法は、ある人間の視点を想定しそこへと対象世界を収斂させる人間中心的な図法であり、このために相対性と有限性とをそのうちに有することになる。この図法では本来無限な世界も人間的な有限性のうちに捉えられ、制限され矮小化されてしまうのである。それに対して軸測図法は、無限の遠方が消失点という形で図中に示されてしまう、という遠近法の「有限な視覚」が持つ矛盾を免れている点でより優れているとリシツキーは考えるのである。この意味ではアクソノメトリック・スペースはより絶対的、客観的な空間表象だといえる。これがボワのいうatopicalな抽象性の意味である。
 またボアは「多形的polymorphous」というもう一つの抽象性を挙げている。これは軸測図のもつ「反転可能性」に関わるものである。

「ファサードの至上価値を打ち砕くことを狙い、「近代性」の建築家たちはこの反転可能性に集中した。建物を時には上から時には下から描き、前景と後景とが交換可能な空間を用いながら。」52*

ここで述べられている「反転可能性reversibility」とは最初に軸測図の図法的な説明をした際に欠点として述べた二義性に他ならない。このかつては欠点であった「反転可能性」をむしろ積極的に利用する点に近代における軸測図の使用の新しさがある。
リシツキーのプロウンルームではこのような軸測図の利用の実例をみることが出来る(図19)。

プロウンルームとは1923年の大ベルリン美術展に設置された立方体状の空間で、それぞれの壁面や天井には幾何学的なレリーフが配され、その構成を連続的に体験する仕掛けとなっていた。注目すべきはこのプロウンルームを表したドローイングである。一見普通の軸測図に見えるが、実はこのドローイングの天井面に描かれているのは通常の見下げの軸測図では描かれないはずの天井の見上げであり、連続的に展開されているように見える壁面も、実際には内側に閉じてきているために描かれないはずの、壁の内部面なのである。ここではそのような描かれないはずの面が、ちょうど立方体を展開するようにほどかれ、同一の画面上に連続的に描かれている。実はこのドローイングにおいては、中間の立方体部分だけが反転的に見上げの軸測投象で描かれており、本来は表裏が入れ違ってしまうはずの平面が、あたかもメビウスの輪のように連続的に反転しながら一続きで描かれているのである。それ故我々はこのドローイングを見る場合には、空間の表象を交互に反転させながら見なければならず、結果として異次元的な、異質な空間表象を経験することになる。
また1927年の『ハノーファー美術館抽象絵画展示室デザイン』(図20)においても下方に壁面内部が描かれており、見方によって壁と床の凹凸が入れ替わる不思議な空間表象を生んでいる。

そこにたち現れる空間は当然ながら実際の空間にはありえない経験をもたらす。「反転可能性」はこのように空間に不確定性を与え、それによって、全く新たな表象を生み出す。それはリシツキーが「非物質的な物質性」 と呼んだような、ヴァーチュアルな建築空間へと繋がる表象なのである。

 実空間の体験においてはありえない「非-局所性」と「反転可能性」は、描かれた画面の内部に全く抽象的な空間表象を出現させることになる。これは実空間においてはありえないという意味においてやはり<アンビルダブルな属性>であるといえ、ひとはこのような空間表象をただドローイングからのみ受け取ることが出来るのである。たとえプロウンルームを展覧会で実際に体験した人にとっても、そのドローイングによって伝達される表象はまた実際の経験とは異なったものであり、それ故それを見ることはなお意味のあることなのである。この意味で、リシツキーをはじめとする近代建築家たちにとって軸測図は建物をつくるためだけのものでも、完成する建物の像を表すだけのものなく、独自の空間表象の伝達を担ったものとして用いられていたということが出来る。

 軸測図は第一に、建物の視覚像ではなく要素間の構成を主題化しその関係性を前景化する。またそれは、遠近法の有限な視覚に対するアンチテーゼとして無限空間を提示し、さらにその「反転可能性」によって、実空間とは異なる抽象性を建築に与える。これらの要素は全て、建物でなく軸測図によってのみ表されるような性質のものであり、建物からは消失してしまう<アンビルダブルな属性>なのである。建築家はこのドローイングによって、そのような種々の表象作用の総体として<建築>を提示しているのである。

 この図法は現代の建築家たちによっても、極めて頻繁に用いられるものとなっており、それはいまや透視図よりもはるかに人気のある図法である。そしてそれが好まれるのは、軸測図がもつ上述したような抽象的性格のためであると考えられる。軸測図を特徴的に用いている建築家には、例えば「ニューヨーク・ファイブ」と称されるジョン・ヘイダックやピーター・アイゼンマンなどがいるが、ヘイダックのドローイング(図21)を見てみても、軸測図のもつ抽象性を十分に確認出来る。

そのドローイングから具体的空間を読み取ることは決して容易ではない。このような難解さは既に述べた抽象性、なかんずく「反転可能性」に起因するものである。しかし現代の建築家はそのような難解さを取り除こうとするどころか、むしろ積極的にそれを表現に取り入れようとしているように思われる。彼らが陰影などを全く用いずに単線のみによってドローイングを描くという事実が、そのような傾向を良く表している。もしそこにもっと分かり易い形で建築の視覚像を生じさせたければ、ショワジーが考えたように陰影をつけて描くべきなのである。つまり彼らは、現実の建物をドローイング上に再現することを目指すのではなくて、むしろドローイングの中にしか存在しない抽象的な空間をそこで生じさせることを狙ってこの図法を選択しているわけである。軸測図が伝達するものはこの抽象的な空間表象に他ならず、そしてまたそれは<アンビルダブルな属性>のものであると言える。

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50* Bois, metamorphosis of axonometry, p.57
51* リシツキー「芸術と汎幾何学」『革命と建築』, p.155-156
52* Bois, metamorphosis of axonometry, p.57
53* リシツキー「芸術と汎幾何学」『革命と建築』, p.155-156

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