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№5361:それって「どっちでもいいんじゃね?」

こんにちは。遠藤です。
※過去分(4740回分)はこちらにあります。

さて、(Facebookでは公開していますが)、先日、某テレビ番組にうちの三男が出演しまして(出演というか「出た」という感じ)。

スポーツ番組だったのですが、その宣伝をしたいのではなく。

その番組を見た方から「番組内のナレーションの日本語が正しくない」という指摘が入ったのです。

視聴していない方には何のことやらわからないと思いますが、ナレーション内の「血気盛ん」は「若さ溢れる」と言うべきで、同じく「小競り合い」は「意見の応酬がヒートアップ」と言うべきだということでした。

が・・。

それって重要なことなのですかね。。

少なくとも私はまったく気になりませんでした。

私からすると「なんで、そっちが気になっちゃうのかな」って思うんですよね。。

番組「全体」は(親目線を外しても)とても良い内容になっているのに、そちらを褒めることなく、「細部」について「ここがおかしい」と感じてしまう。

ご本人にも「そっち?」と言いましたが、こういう「ものの見方」ってどうなのかなと思います。
※その方は本noteをまず見ません。もっとも「見ないから書いている」のではありませんが。

何故なら、このような習性って対人関係でも同じことになっているはずだからです。

相手の良いところではなく、悪いところを中心的に見てしまうという。

で、そこを批判する。

で、多くの場合、本人は「正しい指摘をした」と思っている。

もちろん、悪いところが「○○ハラ」とか、明らかに常識から逸脱しているなら批判(否定)されて当然ですが、たいていの場合は「自分が思う正しさと違う」ということに過ぎません。

くしくも、数日前に「社会人としての最悪の評価は『難しい人』と思われることである」というnoteをアップしましたが「まさにそれ」と思います。

物事の大半のことは「どっちだっていい」んですよ。

白米と玄米を比較してワーワー言っているのと変わらない。

どちらもたいして変わらない。

批判されるとすれば「食べ過ぎ」か「不足」かくらいのもの。

「自分の正しさと違う」というだけで、いちいちヒステリックにならない方がいい。

そもそも「他人」というのは「自分と違うのが当たり前」なのだから。

そんな考え方してたら友だち減ります、マジで。。

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