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小説 俺が父親になった日(第二章)~俺たちの始まり(2)~

 私鉄で十駅ほどある新興住宅街。辿り着いた家もまた、建って間もなく煤けていないベージュのサイディング壁で囲われていた。
 俺はチャイルドシートのベルトを外して、キラをアスファルトの上へと降ろしてやった。
 ダボダボの服をそれなりに整えようとしゃがんだ俺の目には、キラの表情がどこか硬くなっているように見えた。

 守谷巡査長がインターホンを鳴らすと、俺と似た年恰好の一見優しげな男と、その妻らしきちょっと綺麗目な女が現れた。キラの右手を握りながら、俺は一歩下がってそのやりとりをずっと見ていた。
 一切格好もつかない言い訳を並べ立てるそいつらは、俺たちにはもちろん巡査長にさえもロクに視線を合わそうとしない。その表情は、明らかに面倒臭いといったものだった。
 俺は分かった。買う気のない商品を売りつけられようとしている客の顔そのものだ。
 お前ら一体何様のつもりだ。キラはモノじゃない。こんなに小さくとも、血の通った立派な人間だ。
 
 「い、いたっ…」

 キラが小さく呟いた。怒りのまま力が入り強く握り過ぎた。ハッと気付いた俺はその手を緩め、キラを見つめた。
 所在無く固まる視線。不安に押し潰されそうな表情…気付けば俺は、我慢していたものをボソッと吐き出していた。

 「…あんたら、こいつを引き取る気、ないんでしょ?」

 守谷巡査長は即座に振り返った。無言ながらもそれ以上言うなとその顔は語っていた。

 「大体、あんな場所に置き去りにするなんておかしいでしょ?いい大人のすることじゃないでしょ?」

 聞こえている筈の俺の声に対しても、反応する様子は二人に一切なかった。気の短い俺の苛立ちが、決して言ってはならないこの言葉を思わず発しさせた。

 「あんたら、こいつを捨てたんでしょ?」

 女の顔が一瞬引きつった。男のほうは目が泳ぎ始めていた。
 その一部始終を俺はしっかりと目に焼き付けた。これが現実なんだと。

 「何でですか?そこまで嫌がるのは?」

 この期に及んでここまで口ごもるのは何故だ。もしかしたらと俺の頭には最悪の想定が恐ろしい程明瞭に浮かんだ。
 そしてそれは、見事なまでに的中してしまった。

 「…僕の子じゃないし…」

 ふざけるな。そう叫びたかったが止めた。歯を食いしばって、鼻息も荒くなっていた。
 目の奥に込み上げるものを言葉で吐き出すことさえ、こいつらには惜しい気がした。
 悲しくて、とにかく悔しくて。何故かなんて俺自身にだって分からない。
 でも理由なんてもうこれ以上必要なかった。聞きたくなかった。
 ついさっきまで赤の他人の筈だったキラは、唇を噛んで微かに震える俺の顔をずっと見上げたまま、この俺の親指を確かに握り返した。たった一本の指から伝わってくる痛いほどの温かさを全身で受け止めようと、俺は目を閉じて深く息を吸った。
 目を開けたその先にある無垢な二つの瞳が、俺の心を決めさせた。

 「こいつは、俺が育てます」

 それは、あまりにも重大な決意表明だった。

 「な、中島さん!そんなことできる訳がないでしょう!?」

 守谷巡査長は狼狽しながら俺を必死に制止した。見つめた先の若夫婦は呆気にとられていると同時に、明らかに憑き物が取れたかのように安堵していた。こんな奴らにこれ以上我慢できる訳もなく、俺は声を荒らげた。

 「いいんです。こんな人らがこいつをまともに育てられる訳がありません。俺がやります。こいつを立派に育ててみせます」

 敵意剥き出しで二人を睨みつけた俺はもう、これ以上この場に居たくなかった。これ以上キラをこの空間に居させたくなかった。

 「行くぞ!」

 キラの手をグイッと引いて、一礼さえもせずに俺は外へと飛び出した。守谷巡査長の声が聞こえるが、知ったことではない。
 俺はいつもこうだ。感情の赴くままに自分でさえ思いも寄らない行動に出てしまう。

 高校時代、サッカー部の同級生が生徒会長選挙に立候補した。同じポジションで一方的にライバル視していた俺は、ただ負けたくないだけの理由で周りの声も聞かず立候補した。
 実現できそうもない夢みたいな公約を、なりふり構わず幾つも掲げて、夢見がちな学生の受けも良く見事当選した。しかし当然のごとく、ただ校内を混乱させただけの見事なトラブルメーカーと成り下がってしまった。

 冷静に考えたら分かる。感情任せの無謀で思慮のない行動が、上手くいく筈もない。
 だが、これは話が違う。その頃の俺とも違う。確かに無謀だ。しかし思慮はある。
 こいつを路頭に迷わせるなんて、どうやったらできるというのか。あんな無責任な大人に委ねるくらいなら、俺のほうがまだマシだ。そう信じたかった。

 外観だけは幸せそうなこの住宅街が、モノクロにくすんだ虚実だらけの風景となって目の前に広がっていた。俺の息は上がっていた。逃げている訳でもないのに、敵地からキラを救い出すかのような思いに駆られていた。
 これからどうするかなんて考えている訳がない。
 でもそんなもの、これから考えたらいい。
 人生なんてどうやったって、計画通りになんていかないじゃないか。

 無駄に上品さを着飾った一本道を曲がり、あの忌々しい仮面の家が見えなくなった。
 雨がポツポツと降り出した。こんなに太陽は相変わらず眩しく、暑苦しい光を容赦なく放っているというのに。

 そういえば、立候補したあの日の帰り道も天気雨だった。

 「駅まで走れるか?」

 手を引いた先のキラの表情からは、突然走らされる自分の身に何が起こっているか理解できていないのが見て取れた。それでもこいつは、手を引く俺に必死でついてくる。
 俺の速度に追い付けないつま先走り。小さな足を頼りなくもつれさせながら、それでも遅れまいとしているこいつが、たまらなく愛しく思えた。
 そんな俺たちに、気まぐれな空は突然激しい音で雨粒を浴びせ始めた。

 「仕方ねえな!」

 俺は遠慮がちに引いていた左腕で強引にキラを引き寄せ、腕の中で抱えて駅まで走り出した。こいつ、突然のことに驚いたと思ったら、急にキャッキャと嬉しそうにしやがった。

 「…あっ、俺、ヨッシー。ヨッシーって呼べよ。いいな?」

 「ヨッシー!」

 どさくさに紛れてキラに教えたのは、学生時代のあだ名であり、莉紗と付き合っていた頃の呼び名だった。

 冷たく降り注ぐ容赦ない雨と共に、両腕の端から端まで温かな生の息吹が沁み渡っていくのに気が付いた。
 思い出した。生まれたばかりの駿から伝わったあの感触。これほどまでに胸の奥を激しく掴まれるほど、再び熱い思いになるなんて。
 きっと今はこれくらいに大きくなっている…でも二度と、こうやって抱きかかえることはない。時間を戻してやり直すことなど、できる筈もない。不意に苦しくなった。
 あぁ…こんなこと、久し振りに思い出したよ。
 俺は両腕に力を込めて、はしゃぐキラの些細な動きさえも感じ取ろうとしていた。

 そういえば、お前が言っていた同じ匂いって、どんなだった?そんなことさえ、聞く余裕さえなかったな。

 なぁキラ。こんなどうしようもない俺を、どうしてお前は選んでくれたんだ?

 あの時降った雨は、なんだったんだろうな。その理由を本当はお前、知っていたんだろう?

ー つづく ー

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