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小説 俺が父親になった日(第七章)~『普通』って(2)~

 カラカラ音をさせるキラに赤ん坊のはしゃぐ声。しばらく続いた沈黙は彼が整理をつけるために十分だったのだろうか。伏し目がちにハッと息を一つ吐き、彼は苦笑いをした。

 「ははっ、なんだか自分で誘導尋問に引っ掛かったみたいですね…」

 その視線が再び俺のほうへと向けられた。

 「えぇ…僕は普通だと信じたかった。いくら状況がそう言えないものだとしても…でもいつしか、逃れたいと―」

 振り返りたくもない過去に触れた途端、彼の抱え続けたものが溢れ出した。

 「父親は厳しい人でした。世間的にはいい親に見えたのだと思います。でもその厳しさは世間体だけを気にしたものでした」

 経済的には特別不自由ではなかったが、「しつけ」とか「教育」という名のもとで精神的に押さえつけられ続けたのだそうだ。

 「やることなすこと何もかもを否定され続け、そして僕は何もできなくなっていました。いつの間にか、父を嫌いになっていく自分を止められませんでした……」

 「父が嫌い」…強烈だった。俺の頭に重苦しく響いた。俺にとっての親に対する些細な不満で返事できるほど、軽くはなかった。
 一方で存在を否定されるほどの世間体という、とてつもなく因習的で根深い存在を、どうやって跳ね除けたらいいんだ?
 返す言葉が全く見つからない俺の目の前で、彼は彼なりの答えを俺に教えてくれた。

 「親の価値観を押し付けてしまっては、子供は息苦しいだけです。親の思いも伝わらないですし、意味がないです。子供の生きる時代に合った環境を、できる範囲で構わないから、親は努力して作らないといけないんです。それも決して無理せずに、です」

 「無理せずに?」無理し通しの俺は反射的に聞き返した。

 「そうです。見栄を張って不相応なことをしても、最後には破綻します。子供のためにもなりません。そうしたい僕の思いを彼女は理解してくれているから、こうやって背伸びせずできているんです」

 背後からぶん殴られたような衝撃を受けた。
 俺が気負い過ぎている理由。子育ての負荷がそうさせたのではない。手離せなかった俺の価値観がそうさせていた  ―

 ― 誰より先んじたい。上にいたい。上手くやりたい。格好良くいたい。そういられる優越感。いつの間にかそれが俺の価値基準になっていた。手に入れやすい見栄や虚栄でガチガチに固めていた。
 それらを手に入れた末の離婚。家族は目の前から消えた。

 描いていた理想など既に崩壊していた。脳裏から消し去ったつもりだった。
 それなのに、俺はその残骸にしがみついていた。
 本当は分かっていた。それでもなお、認めたくなかった。もう一度同じ理想に近付こうと、粉々になった瓦礫を積み上げていた。
 自分が勝手に描いた世間体。でもそれは間違いだった。
 キラを背負った今、俺が作り上げたいものは、それじゃなかったんだ ―

― どこまでバカなんだ俺は。
 答えはもう出ていた。その結論に理由付けできなかっただけだ。
 その理由が今、彼の言葉でようやく見つかった。

 「……なんか、やっと分かったみたいです」

 「えっ?」

 「無理してました。過去の自分を否定したくなかっただけのことで。それはきっと、キラにとっても私のためにもならない…そんな感じのことです」

 唇を噛みながらも目尻を少し緩ませて、彼は俺のほうに頷いた。
 だが次に出てきた俺の言葉には、少なからず驚愕したようだ。

 「この街…住むにはどれくらいかかるんですかね?」

 「はぁっ!?」

 「いや…今日歩いてみて…何かとこれくらいの街が住みやすそうな気がしてですね……」

 俺は恥ずかしげに笑って頭を掻いた。マンションを売り払ってこの街に移り住もうと決めたのだ。ベビーベッドのほうで、キラは相変わらず赤ん坊をあやして嬉しそうだった。

― つづく ―


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