小説 俺が父親になった日(第四章)~昨日の敵は今日の友(1)~
「どうしたんですか?」
やや甲高く響くその言葉は、てっきり早朝から汗だくの俺に向けられたものだと思った。
いや、俺に向けての言葉ではあったのだが。
「貴羅くんとどんなご関係なんですか?」
幼稚園で唯一の男の保育士は、キラが遠くへ行ったのを見計らい、俺へと問いかけた。
口調を変え穏やかに響く声の中に潜む、研ぎ澄まされたな棘に、俺は躊躇した。
キラは友達らしき子へと駆け寄り、楽しそうに遊び始めた。
俺はといえば、どう説明すればこの怪しむ視線から逃げることができるのかを一瞬考えたが、すぐに諦めた。
どうせ繕えば繕うほど、疑惑は深まるばかりだ。
「樋口先生!お仕事もあるでしょうしご迷惑ですよー」
別の先輩保育士らしき人の遠い声が、俺を解放してくれた。
「すみません…お迎えの時、少しお話を伺えませんか?」
怪訝な表情から発せられた言葉は、当然同じ意味合い…そう俺は勝手に思っていた。
どう組み合わせても出来の悪い言い回しを、幼稚園を離れた時から一日中必死に思いあぐねた。繕っても無駄だと保育士の前で降参した筈なのに、策を諦め切れないまま悪あがきをしていた。
こんな状態で仕事に身が入る筈もなく、午前中の様子を見かねた荒木課長は、午後からの外勤を二期下の森島に差し替えた。
不注意で大事な話が御破算になっては困るというわけだ。
周りが見る今の俺は、自分が感じていた以上に酷いダメ人間のようだ。
そしてそう思われるような状態で考え抜いた結論は、結局始まりに戻っただけのもの。
同僚からこれ以上邪険にされてはたまらない。内勤を告げられようやく我に戻った俺は、頭の中でちらつくあの樋口とかいう保育士の顔を振り切って、仕事に没頭しようとした。
二度と取り戻せない時間とチャンスを取り戻そうとするかのように。今更無理なのに。
熱帯夜が決定した日暮れ時、追い出されるように俺はオフィスを出た。
足取りが重い。自動ドアの向こうから押し寄せる熱風は、エレベーターホールまで俺を突き飛ばしそうだ。
今日は一日中内勤だったのに、汗だくなままだった。襟元に染みつく臭い汗は幼稚園の一件を思い出させ、熱気の溜まった乗り換えのホームに立つ俺を一段と落ち込ませた。
たった七年ちょっとではあれど、築き上げてきたつもりのものが、一気に崩れ去ったように思えた。
あいつさえいなければ…その思いが過ったのは否定しない。とんでもなく身勝手だ。
そうだ。そんなことを一瞬でも思ったこと自体が、お門違いで恥ずべきことだということも分かっている。
本性と理性との間で俺は激しく揺さぶられていた。この状況に耐えられるかどうか、正直俺には分からなくなっていた。
「ヨッシー!」
幼稚園に到着するとキラは俺にすぐ気付き、相手をしてくれていた若い保育士の手を振り払って満面の笑みで駆け寄り、俺の右脚へまとわりついた。
何故だろう。その姿が目に映った途端、さっきまでの辛さがフッと消えた。
キラの様子に気付いたのか、あの保育士が職員室から顔を覗かせた。俺は気まずいまま無言で軽く頭を下げると、彼は奥の応接室へ俺を招いた。
「貴羅くーん。おにいさんはお話があるから、もう少しこっちで遊んでおこうかー」
この数分後。想像などできない展開が俺の目の前で起こるのだった。
ー つづく ー