[小説 祭りのあと(19)]三月のこと~紫紺の帯締めと鶴の恩返し(その2)~
「はい。反対されるのは分かっとったんで嘘をついて納得させたんです。何年か後には必ず跡を継ぐって。でも僕は、跡を継ぐ気は全くないんです」
僕は地雷を踏んでしまった。大問題勃発だ。
あのひろみさんに知れたらとんでもない騒ぎになる事実を、僕は聞いてしまった。
「そ……それって、隠したままで京都に行くん?」
彼は頷いた。若いというのはこういう勢いも確かに必要なのだ。
しかし問題は先延ばしになっただけだ。
このままでいいのか。僕はいつの間にか、他人の問題にやたらと首を突っ込むお節介野郎になっていた。
「解決してから旅立ったほうが、いいと思うんじゃけどなぁ」
大人の曖昧な正論に、若者は見事に翻って剣を向けた。
「それじゃあの人に、どうやって立ち向かえばいいと思います?」
完璧にやられた。奥に座る岸さんの横顔がにやけている。
自分の人生を通して強固になったその人の正論は、いくら他人から見て明らかにおかしかろうとも、本人にとっては立派な正論なのだ。
それには僕の発した安易で貧弱な正論など、一切通用しない。その事実を彰君は、僕よりもずっと理解していたのだ。
「その件、俺は一切立ち入らんぞ」
「なんよ。えらい即答じゃん」
「親子関係程難しいことはないんで。オマエも分かるじゃろうよ。しかも相手があのひろみさんじゃ。火を付けたら一番まずい相手なん、さすがのオマエも知っとるじゃろ」
陽治が僕を「オマエ」呼ばわりする時は、本当にキレている時だけだ。
これくらいにひろみさんという存在は、腫物に触るように接するべき相手なのだ。
「一つ忠告できーことは、ひろみさんを変えようなんて考えんことじゃ」
「そうか……」
背後の気配に振り向くと、幸がいた。
テーブルに徳利とお猪口、細かくちぎった香ばしいあたりめを置き、話に割って入った。
「息子に対する母親の心情って、相当深いんよ。ウチだってかなりのもんじゃけぇ」
「ええっ、俺のことか?」
自分のことが引き合いに出されるとは思ってもみなかった陽治は、びっくりしていた。
「そうよ。私なんかそうそう割り込めんものがあるんよ」
「あれで気を遣ってるってこと?」
確かに陽治の母さんと幸は毎日のように言い争っているので、気遣いという言葉とは無縁だと僕も思っていた。
「あれでも一線引いとるんじゃけぇ。陽ちゃんのこととなると、お母さん特にむきになるけぇ、絶対に正面切っては言わんようにしとるんよ」
女という生き物は複雑なんだな。
だが、より一層難しい女の一面を、幸はまたもや教えてくれた。
「あれね。息子は恋人みたいなもんなんじゃろうね、母親にとっては。私の母さんも、弟と私とは扱いが全く違ったわ。私なんて放りっぱなしよ」
母親というものになると、女はより一層難解な生き物になるようだ。
よく言われる母の無償の愛というものは、時に相手に報いを求める情愛に変わってしまうことがあるのだと、幸の言葉で僕ら男二人は初めて知った。
「そうなると、恋人同士の清算方法を取るべきなんかな…」
「しもやん、なかなか危ねー方向に考え始めたな」
「いや、確かにそれくらいの意気込みがないと上手くいかんって。特にあそこは」
予想通りの二つの反応が二人から返ってきて、僕はこの方向性の正しさを確信した。
しかし、ポケットの中の石は冷たいままだ。まだ何かが足りないということか。僕は強力な提案を出し続けた。
「面と向かって言うのは、インパクトがデカ過ぎるじゃろうか」
「そうね。でも電話やメールで済ませる程軽い内容でもないじゃろ」
「ということは、手紙かね」
喋ると聞かなかった振りをされる。メールでは思いが伝わらない。一方で手紙は手許に残る上に、自分の文字で書くことで良くも悪くも念が込められる。
伝わることが大きい代わりに、もらう方にはダメージを与えることもあると幸も陽治も警告した。
石はまだ冷たい。成功する確証はないが、僕はこの方法を提案することにした。
「手紙、ですか」
店の前を通り過ぎた彰君を僕は捉まえた。
僕の考えを伝えた時点では、彼はまだ乗り気ではなかった。
そこで僕は、あの黒い石を作業服のポケットから取り出して彼の右の手のひらにそっと置いた。
「この石は錫ですね。こんなに綺麗に削られとるのは珍しいですよ」
石を様々な角度から熱心に眺める彼に向かって、僕は丁寧かつ懸命にこの石の持つ力を語った。いい方に転がる保証はないけれど、熱を帯びた時に思わぬ力を君に与えるかも知れないと。
「そういえばそういう力がこの石にはあると、確か聞いたことがあります」
彼がそう言った直後のことだった。
「えっ、何だか熱くなってきました!どんどん熱が強くなってきます……」
そんなことって……今の今までいくら僕が何を思い付いても変化がなかったのに。
「あっ……いい方法を今思い付きました。真剣さがしっかりと伝わるやり方を。早速取り掛かってみます」
彼は礼をした後、石をギュッと握り締めたまま家の方へとゆっくり歩き去った。
石の力を実感した彼は、ようやく母親と向かい合おうとする気持ちになったようだ。
きっと彼は、僕には考えもつかないやり方を思い付いたのだろう。
今この時、この石を持つべき人は、僕ではなく彼だったのだ。