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小説 俺が父親になった日(第五章)~誰かのために生きること(3)~

 そうは言っても、ほどほどに気を抜かないと、とても続かない。

 雨があまりに酷く降る日の送り迎えは、さすがに電車を使う。
 そんな日の夕飯は、個人経営の古惚けた佇まいの居酒屋で済ませることにしている。キラと出会ってから外食続きの中で初めて見つけた店。
 指で押したら途端に崩壊しそうな一見粗末な見た目の店。初めて入った時は漏れ聞こえる客の物音を聞いて、連れて入って大丈夫だろうかと本気で不安になった。
 だが大将と女将さんの人の好さと味の良さに、一回目で気に入った。

 「あらぁ、今までで一番若いお客さんだわー」

 女将さんの言葉に、座って両腕をつっかえさせながら見上げるキラは、両足をブラブラさせてなんとも嬉しそうだ。
 普段好き嫌いの激しいキラも、俺が準備しても手をつけないような惣菜でさえ、ここのなら食べてくれるのだ。懐が寂しくなること以外に行かない理由なんて見つからない。下手なチェーン店より気持ちが落ち着く。

 ヒリヒリする東京の冬を潤すにしては、この日の雨は激し過ぎる。「不二蔵」の扉にも暴風雨が激しく打ちつけ、女将さんは扉の立てつけと客入りの悪さに気が気でない。

 そういえば二週間後、十二月八日はキラの誕生日だった。

 PCデスクに放った茶封筒の中に入っていた母子手帳。明け方にキラはこの世に生を受けたのだと書いてあった。

 「ん?」

 「だからさ、何が欲しいって聞いてんの」

 女将さんが用意してくれた専用のスプーンを持ちながら、キラは口をモグモグさせてこっちを見ている。最近大好物になったこの店のポテトサラダに夢中になり過ぎて、俺の話など聞いちゃいない。

 「んー、ケーキ」

 「ケーキ?」

 「うん。いちごがいーっぱいのってるやつ」

 拍子抜けだ。いつもはあれだけなんとかレンジャーだのミニカーだの言っているのに、特別な日にそんなありきたりなもので満足するのか…まぁ、ケーキもいつも食べるものじゃないから、確かに特別か…
 腑に落ちないところもありつつ、なんとなく自分自身を納得させて、鶏軟骨のから揚げに箸をつけて、生ビールを一口、二口飲んだ。

 するとジョッキの底、透明なビールから透けて見えるキラの口が「あっ」と確かに言った。その一瞬何かを思い出したような表情になった。
 だがジョッキを置くと、視線が合ったのが良くなかったのか、今度は恥ずかしげに下を向き黙ってしまった。

 「なに、何?なんか思い出した?」

 キラはまだモジモジしたままで、なかなか言い出さない。
 そんな格好をしているうちに、背もたれに寄り掛かり過ぎたせいで、テーブルの下に顔が半分隠れてしまった。

 「言ってみなよ。あげられるかどうかは分かんないけど」

 姿勢を直そうとキラが手を掛けると、テーブルが揺れてジョッキや皿がガッチャガチャと音を立てた。醤油差しは倒れて盛大に醤油が零れた。
 俺は慌てて立て直してテーブルをおしぼりで拭いたが、拭き切れずに仕方なく女将さんに台拭きを借りた。
 始末が落ち着くとようやく、神妙な顔つきで俺を見つめているキラに気がついた。

 「かたぐるま、してっ」

 えっ?肩車ってあの肩車のことか?
 そんなことでいいのか…でも確かに、肩に担いだことは一度もなかった。

 「あぁ…やるやる。忘れないようにここに書いとくな」

 いい加減にも聞こえそうな返事に対して、言葉はなかったが何故だかキラはとても嬉しそうだった。

 「お祝いしてやっから、その日は寄ってってよ」

 いい歳をしてちょっとヤンチャな風貌をした大将の威勢のいい声に、キラは両手を挙げてワァーっと口を開けてふざけた。俺もまた、黙って頷いだ。
 
 「おいこら、ダメだって」

 ショーケースにキラは張り付いている。彩り鮮やかなケーキたちに釘付けだ。引き剥がそうとする俺とキラとの格闘する姿に、フレッシュさが漂う女性店員も苦笑いだ。 
 結局最初のオーダー通り、苺たっぷりのショートケーキを買った。ホールではないが。

 店を出ると「さて」とおもむろに俺はしゃがみ、キラと視線を合わせた。
 すっかり忘れていたのだろう。最初はキョトンと首を傾げていたが、肩を指先で何度も指すと、声にならない声で「おおぉー」と言い、ケーキの箱を持って頭を下げた俺の肩にちょこんと跨った…

 …んっ?重い!こんなにこいつ、重たかったっけ?

 あのおもらし事件で連れて帰った時、あの叔父夫婦の家から連れ帰る時…両腕で抱えて走ったあの頃からまだ四ヶ月程度しか経っていない。
 そのたった四ヶ月で、キラの身体は相当成長していたのだ。

 そうとは言え、担げないというほどでもない。俺は鞄を肘に掛けてキラの両足をしっかりと掴み、立ち上がった。
 重いのは立ち上がるまでのこと。歩き始めたらそこまで辛くもなかった。
 ただ、俺の頭をキラがやたらガシッと掴むのと、尖ったケーキの箱の角がバシバシ顔にぶつかるのは結構参る。

 「…ってっ、てっ! おま…そこ持つなっ…ちょっ、その箱くれっ…」

 コンビニの窓ガラスに映るキラはなんだかご機嫌そうだ。はぁ…まー、それだったらいいとしよっか。

ー つづく ー

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